効果のある教育について
知識の付与を少しばかり行った後で、仕事が出来るようになるか?これは、多くの場合に役立たないという答えが返ってくるであろう。
しかし、一度の教育で効果がある場合もある。その多くは、教わる方が無意識にその事例に触れていた場合である。例えば、自分が考えずにおこなった行動を、裏付ける理論を学んだ場合には、その行動が安定する。
このようなことで、業務の改善などが進むことがある。
監視職の指導などでも、褒めることを理論的に行えば、大きな効果がある。
知識の付与を少しばかり行った後で、仕事が出来るようになるか?これは、多くの場合に役立たないという答えが返ってくるであろう。
しかし、一度の教育で効果がある場合もある。その多くは、教わる方が無意識にその事例に触れていた場合である。例えば、自分が考えずにおこなった行動を、裏付ける理論を学んだ場合には、その行動が安定する。
このようなことで、業務の改善などが進むことがある。
監視職の指導などでも、褒めることを理論的に行えば、大きな効果がある。
昨日、フジテレビ系で放送された「ほこ×たて」は、技術系の学生や若手技術者には、一見してしっかり考えてほしい内容を含んでいた。内容は、絶対壊れないという壁と、何でも破壊する鉄球の対決である。
まず、技術者として考えてほしいことは、軽々しく
「絶対壊れない」
と言う発言をしてはいけないということである。
「XXの荷重でどれだけの衝撃まで耐えます」
と言う発想が重要である。自分が作ったもの壊れ方に関する議論をすることの重要性は、原発事故を見てもわかると思う。
一方、破壊する鉄球側にも、落とし穴がある。何度も同じところに叩きつけて、モノを破壊していると、鉄球やワイヤーロープが持たなくなる場合がある。
「鉄と言えども壊れる。」
このことは知っておいてほしい。
日米の組織について、「人中心の日本企業」対「ポスト中心(機能主義)の米企業」と言う図式がある。
ポスト中心の組織にするためには、まず個々人の完成度が高く、各機能に要求される能力を保有する人材が揃えることができる。能力がない人間は排除できるという前提がある。その上で、組織構造をしっかり考えて、各部の機能を明確にする。そして、各人と契約を結んで、仕事を明確にする。
一方日本的な組織つくりの考え方は、まず人をそろえる。組織と言うより人員配置の表を作る。その中では、各人の頑張りに期待する。体制を作ったとき、各人に必要な能力が備わっているとは限らない。そこで、各人の頑張りに期待する。つまり「自己努力で、欠けた能力を補う」行動をとることを暗黙に期待している。
このような差を考えると、ネルソン提督の
「各人がその義務を果たすことを期待する」
と、東郷平八郎司令長官の
「皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ。」
の違いがよくわかると思う。
欧米式の組織論には、
「判断できる人間は限られている」
と言う考えが基本にある。従って指揮管理を行う人間の責任を厳しく問うことになる。一方、日本的な発想の背後には、皆が意識しているかどうかは別として、日本仏教の
「すべての人に仏性がある。皆の可能性は同じ。」
と言う発想がある。従って、皆が理念を共有し、一丸となり潜在能力まで引き出すのが日本的組織論である。
『坂の上の雲』の一節に、「最後の一人になっても艦を目的地に向かわせる」と言うのが、この考えをよく示している。実際、第4艦隊事件の『一等水兵の名操舵』では、訓練を受けていない一等水兵が緊急事態で舵を握り多くの人間をすくっている。
しかし、指揮官の能力も重要なことを、日露戦争は示している。「坂の上の雲」で、日本にしかできないと書いた、「師団単位の夜襲」で有名な「弓張嶺の夜襲」においても、小隊長レベルの指揮能力が、大きな成果を生んでいる。状況に応じて適宜判断する能力は、個人差が大きい。
このように各人の潜在能力を信じることは大事であるが、短期で判断する能力は、ある程度選別も必要ではないかと思う。日米組織論の両面をもう一歩踏み込んで考えてみたい。
就活関係の話で、自分がやりたいことができないという話を聞く。確かに会社生活では、自分が思うとおりにできないことが多い。そして会社の風土、文化に自分を合わせる必要がある。そしてある意味、滅私奉公的な努力を通じて、何物かを身に着けることも多い。
しかし、管理職などになったとき、このままではいけない。管理職として自分の裁量権が出たとき、理想の職場を考えて、変えていく必要がある。ある意味で、
「自分の好きなようにする」
ことが望まれているのである。
ただし、このように自分がしたいことができるのは、会社の方針をしっかり理解しているからである。このような経営方針に合わせて、行動できるようになったら、好きなことができるようになる。
なお、管理職としては、提案や意見具申を通じて、会社のあるべき姿を描く機会もある。
しかし、就活段階ではしたいことと言っているが、管理職になる段階ではこれが消えるという、反対状況が多いのは残念なことである。
日本は、巨額な赤字公債を発行している。その引き受け手は、自国の金融機関の比率が高い。これは、金融機関の投資力が安全サイドの国債に向かっている。しかも日本人は、貯金するのは好きだが、使うことはあまりない。従って、赤字国債を無事引き受けても、それほどのトラブルがなく経済が流れている。
これは考えようによれば、国民は貯金と言う形で、公共の福祉のために投資しているのではないかと思う。
ただし、その金を変なところに投資されるのは気に入らない。考えてみれば、小泉郵政選挙は、亀井静香一派が、郵便貯金を押さえて、国債に金をもっと回そうという流れに対する反発と言う形で、国民の審判が下ったのではなかろうか。
そう考えれば、その後の首相が、国民を裏切り続けて、自民党が敗退したのも当然だと思う。
成功する人間について、少し考えてみた。
まず、問題点に対して、自力で答えを出そうとする。但し一人で抱え込むのではなく、人と協力するのは当然である。しかし自分としてできる限りの力を尽くすことが大切である。
このためには、自分の可能性を信じて突き進む力が必要である。もう一つ言えば自分の中にある良いモノを自力で探す力が必要である。一方謙虚に他の良いところを認めないといけない。
また、失敗を恐れてはいけない。しかし間違いを速やかに認めることも必要である。間違っていたら次は修正する。人間は進歩することが大切である。
さらに、色々な状況へ対応することも大切である。人には色々な価値観がある。それを認めながら、自分としてできることを行う。自分を大切に、そして他人をきちんと尊重する。これも必要である。
このようなことを考えて、常に自己を磨いていけば、最後には成果を得ると思う。
今の学校教育は、学んだことを実世界で生かすことについては、あまり上手に教えているようには見えない。
そこで私の提案は、色々なことの説明書を書く訓練である。工学系なら自分の分野の製品の取扱や、メンテナンスのマニュアルを書く練習である。社会科学系なら、法律の読み方などもよいと思う。このような訓練をしておくと、自分の専門知識を、専門外の人に伝えることがやりやすくなる。
このような訓練もよいのではと思う。
昨日も書いたが、平清盛の時代は大きな変革期である。
大きく見ると、公家社会の身分の壁を平清盛が壊す。それを源頼朝が、幕府と言う形で武家政権ができるようにする。そして北条泰時が、承久の変で、公家側の反撃を断ち、法制度と言う形で確定させる。
このような流れで読めばよいのではないかと思う。
清盛が生まれたのは1118年、貞永式目は1232年、この100年程度の短い期間で、公家社会の壁を崩し、武家社会を整える。しかも、革命としては比較的平和に行うというこの国の歴史はもっと見直されてもよいのではと思う。
NHKの大河ドラマ、『平清盛』は、某県知事から汚いという評価を受けている。
しかし、平家物語の拾い読みしかしていない私のような人間には、よい勉強になった。今まで、平家物語の冒頭を踏まえて
「驕る平家は久しからず」
と言う部分に目が行っていた。
しかし、その前の状況を考えれば、公家の社会であり、武士階級は”不浄の者”扱いされていた。平家が栄華を誇ったのは歴史の目で見れば、一瞬のことである。
後世の目で見ると、公家社会は終わりをつげ、武家の世になると見えるが、このような変革を引き起こす時の生みの苦しみと言うものを、現在こそ見直すべきではないかと思う。
今の日本は、方向転換時期になっている。従って、リーダーに依存する発想もわかる。しかしながら、同意・共感を重視する日本の文明には、リーダーと言うものが、育ちにくい面もある。特に戦後の高度成長時は、一方向に皆を追い立てることを、リーダーの仕事としていた。しかし現在は、方向のみ定めが重要である。欧米的な、頭で考えた『哲学』で引っ張ることの方が、変革期のリーダーを生みやすいと思う。
しかしながら、日本人も今まで色々な大変革を行っている。神仏の平和的な融合を行った聖徳太子、弘法大師の昔から、織田信長~徳川幕府につながる仏教の平和化・非武装化などは、世界文明史的にも大きな発明だと思う。
このような文化的にも大きな発明ができた日本と言う国の可能性は信じてもよいと思う。
ただし、このようなリーダーは少しでよい。
ただし自分の生き方においては少しはリーダーシップを持ってもよいと思う。
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