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2008年4月27日 (日)

裁判員制度について思うこと

 裁判員制度の導入に関して、この国での導入の障害を2つほど考えてみた。

 まず歴史の切り口から考えてみる。わが国は、どちらかというと、お上を信ずる風土がある。例えば大岡裁きである。
  「困った時はお上に訴えれば、正しい裁きをしてくれる。」
このように信じている向きがある。これは聖徳太子に始るのかも知れない。従って国民の中に
  「お上を信じ任せる。」
という考えがある。一方、欧米では、暴君の圧制に対し戦った歴史から、
  「権力者の裁きを信用できない。」
という発想がある。その観点からは、大衆が参加する、陪審員制度は、権力の暴走を防ぐ手段として、必須のものである。記憶が定かではないが、ディクスンカーの短編推理小説にも、判事に対し裁判の傍聴者等が、全員で異議を提示し、
  「主権在民はこれだ」
というシーンがあったように思う。そういう意味では、日本でも冤罪事件に関連した、裁判への異議申し立て的なものがあるが、本質的には、「お上を信じる」国のように思う。

 ここまで書いて、
  「忠臣蔵は?」
と自分で突っ込んでしまった。これはどう見ても、徳川幕府の裁きに対する、反抗である。この作品を皆が認めるのは、無意識的に『お上』を信用していないのかもしれない。

 もう一つは、国民の論理性の教育である。欧米の言語教育は、小学校レベルから
  「事実と意見の分離」
をきちんと教え、叩き込んでいる。現在の日本の国語教育は、そのような訓練が、されていない。逆に、『国語と道徳の混在、教師(教科書作成者)の感動の押し付け』など事実認定を妨げる教育すらされているように思う。司法試験合格者の能力は、論理的に思考する能力を評価しているように思う。更に、訓練もしているようである。このような力が弱いと裁判員で苦労すると思う。

 しかし別の見方をすれば、「某カレー事件」のような場合、プロの法律家が考えると、状況証拠だけで、
 「疑わしきは被告人有利」
の原則で無罪になる時に、一般人の感触で、
 「この状況証拠で間違いない」
という意見は、裁判官の後押しになる効果があると思う。

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