日本語での新発想法
今まで何回か、日本語の論理について書いてきた。西洋言語の三段論法主体の議論と比べて、日本の言語では記号の"表記"から連想する事項も含めて、頭の中で動かしながら、考えることが多い。西洋的な表現では、類推や思考実験である。
このような思考法は、イメージがない更地での発想には難しいものがある。しかし、一度動き出すと密度の高い思考ができる。
「日本人の発想は、現場できちんと生きる」
と言うのは、このあたりの状況を示しているように思う。
今まで何回か、日本語の論理について書いてきた。西洋言語の三段論法主体の議論と比べて、日本の言語では記号の"表記"から連想する事項も含めて、頭の中で動かしながら、考えることが多い。西洋的な表現では、類推や思考実験である。
このような思考法は、イメージがない更地での発想には難しいものがある。しかし、一度動き出すと密度の高い思考ができる。
「日本人の発想は、現場できちんと生きる」
と言うのは、このあたりの状況を示しているように思う。
今朝のNHKテレビで、漫画の話を取り上げていた。関連して一つのことを思い出したので、忘れないうちに書いておく。それは、講談社の雑誌と、小学館の雑誌の違いである。
小学館は、多くの雑誌を出すので、一つの好みを持った人が、1冊全てを読む。一方、講談社の場合は雑誌種類が少ないので、1冊に色々な連載があり、好みにより読む部分と読まない部分が出てくる。
さてどちらが、良いであろうか。1冊全部が好みに合っているほうが、読者のためには良いように思う。しかし、1冊の多様な連載がある場合には、読者の成長に対し、自然に読む内容を変えることができる。
長期的な視点では、多様な物を提供した方が有利な場合もある。ただし、個別の作品が強烈なファンを抱えているのが、生き残りの条件である。1/3しか読まないでも、この値段が惜しくないと、読者に言わせる力が必要である。
現在電気自動車を作ることは、従来のガソリンエンジン自動車と比べて容易である。従って、多くのベンチャー産業が参入しているらしい。電気自動車では、ガソリンのような内燃機関を持っていないので、発熱量が少なく、金属車体でなく、プラスティック車体でも可能と言う話しも聞いた。
確かにガソリンを燃やした時にでる熱と比べると、電子回路やモーターの発熱は、遥かに小さいと思う。
しかしながら、電気自動車の実現に必須の、電子回路は発熱による誤動作の可能性がある。高密度実装の回路では、摂氏100度程度の高温となることも多い。これはガソリン機関の発熱と比べれば微々たる物であるが、発熱は発熱であり、確り対策が要る。
大きなものを対策している人間は、小さなものを軽視することが多いが、小さくてもトラブルは十分起ることを知っておく必要がある。
一般には、
「自分の部下が有能であると、管理者にとっては楽である。」
と言われている。有能な部下に、簡単な仕事をさせれば、管理者は楽である。そのため、有能な部下を手に入れようと、管理職は色々と苦労している。しかし、有能な部下に任せて、その成果に安住するのは、経営に役立っているのであろうか?組織としてのアウトプットを最大にする為には、有限の資源で成果を出す必要がある。
有能な部下を得たらそれ相応の仕事をさせないといけない。そのためには、管理者は仕事を取ってこないといけない。
また、協力会社に仕事を頼む場合にも、有能な会社に丸投げなら楽である。しかしそれではコストが高くなるか、技術の空洞化をきたすことになる。
あまり楽して仕事をしてはいけない。管理者にもそれなりの仕事があるのだから。
日本語の力について、もう一度考えてみたい。現在の日本では、大学の教育でも、多くの教科書が日本語で書かれている。これは、学問に必要な概念が、日本語に備わっているからである。少なくとも、必要な定義を記述できるための、基本用語と文法がそろっていると言うことである。
これは、当たり前のように思うかもしれないが、世界中では珍しい例である。明治時代の先人が苦労して、欧米の学問を日本語で記述できるように苦労した。これが一つの理由であろう。それでも、明治から昭和の戦後時代まで、学問の先端を身につけるためには、英語などの語学力が必須であった。
しかし現在の学問は、かなりのレベルまで日本語で用が足りているように思う。
ここで気になるのは、いわゆる論理的思考の違いである。日本語の論理では、共有感覚を母体にして、更に類推的な追体験での理解が働いている。これは、欧米語の記号的に確りした論理と本質的に異なる。
ものづくりで、総合的なものは日本人が得意で、モジュラー化は米国が得意と言うのは、このような日本語の特性にもよると思う。
このブログの中で、アクセス件数の多いのが、管理職に関する項目である。管理職の業務の中で、大事なことは、部下に対して命令を下すことである。しかし、これが上手な人は少ない。そこで、極端な話しとして、軍隊組織の命令について書いてみたい。軍隊の命令は、ある意味議論のない一方通行に見えるが、結構よい点もある。
まず軍隊の意思決定では、合議と言うことはない。意見具申はあっても、決定者は指揮官である。一方、命令の原則は以下のとおりである。
この原則は、会社の仕事でも使えると思う。また、現場と中央のギャップに関しても、上記3.が大きな意味を持っている。命令には、背景となる状況認識をきちんと説明しなければならない。そして、現場の指揮者は、命令に関連した状況認識と異なった状況になれば、可能ならば上位指揮官の指示を仰ぐが、連絡の取れない場合には、独自の判断で行動する。そのように、上位者の命令がない場合の決定権を決めるために、軍隊の階級はある。階級上位者が、自動的に指揮権を継承する。
なお、命令を受領した部下は、きちんと指揮官と取引をしないといけない。つまり、自分の保有する戦力で、決められた時間・空間において、任務を果たせるかどうかである、状況によっては、戦力の増援を求めなければならない。このような取引が出来ない部下を使ってはいけない。
これらの話しは、現在の会社組織でも十分使えると思う。
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戦術と指揮―命令の与え方・集団の動かし方 (PHP文庫)
著者:松村 劭 |
昨日の続編でもう少し思いついたので、補足しておく。テイラーの科学的な手法に、相当するものが、日本にあった。
それは、嘉納治五郎の講道館柔道である。1882年に講道館を設立した時には、すでに古流柔術の技を、科学的に説明できる様にまとめている。テイラーの研究が1890年ごろであるから、少し早いと思う。更にもう少し遡れば、千葉周作の北辰一刀流の合理的な体系もある。
ただし、嘉納治五郎の柔道では、体内の筋肉の精妙な動きが、消えたように思う。古流の型稽古の中に、隠されたものが、柔道の技術として、顕在化したため消えたものがあるように思う。このような観点も考えて欲しい。
20世紀初頭にテーラーが提唱した科学的管理法について、少し読み返してみた。確かに、彼がやったことは、作業内容をきちんと観察し、最善の行動を求めて、標準化すると言う科学的な手法で研究したことは、当時としては画期的なことであった。
しかし、日本では、もっと昔から体の合理的な使い方に関して、調べていた人達がいるように思う。それは、武術にたずさわる人たちである。確かに彼らの研究は、主観的な手法であり、現在の科学的手法とは異なっている。しかし、このような蓄積があったことは、考えておくべきではと思う。
大学の先生が、
「学生が、レポートや論文を、コピー&ペーストで作り上げるのはけしからん」
と憤慨している話しを良く聞く。さて、ここで
「何故コピペがいけないのか」
と言う疑問にきちんと答えることができるであろうか?
まず一つの観点は、著作権の問題である。確かに著作権を放棄していない情報を、著者の許可なしに使うのは、法的違反である。しかし、インターネット上には、コピーレフトと言うことで、コピーフリーの作品も多くある。この場合のコピーについて、著作権で拒絶するのは難しい。(もっとも用途限定を超える場合はある)
次に、先生方が
「学生のオリジナルな意見」
と限定した出題なら、これは条件違反である。しかし、実際は、レポートにも正解範囲があり、本当のオリジナルと言うことは難しい。
私の意見で、コピペが悪いのは、
「学生が本当に鍛えないといけない能力の訓練が出来なくなる」
からである。学生時代に鍛えるべき能力は、適切な前提を選んで、理論的に推論または論証して、結論を得る。そして、その結論を、現実での経験に照らし合わせて、検証する。特に、前提として選ぶべきことは、一般的な原理が望ましい。
こうして、学生時代に学んだ知識を現実に適用し、しかも適用限界にあわせて修正する能力が、就職後も生きる重要な力である。
この訓練を行う機会を、コピペでは失ってしまうのである。
東京モーターショーが、海外メーカーから逃げられ、上海の方が盛況だと聞いた。確かに、物を売り込む相手としては、日本より中国の方が魅力があるだろう。人口比率だけでも負けている。
しかし、海外のメーカーが来なくても、日本のメーカーが自力のコンセプトと、技術をPRすればよいのではないか。
日本から発信するものが多ければ、海外から見に来る人は多くなる。これでよいのではないかと思う。
日経BP社のHPで、「新興国市場のジレンマ」と言う記事があり、日本製品の過剰スペックは、海外市場では受け入れられないことがある、と言う主旨の議論があった。http://techon.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20091023/176741/
そしてこれに関連して、東京大学ものづくり経営研究センターの新宅・天野先生のペーパーも掲載されていた。
http://merc.e.u-tokyo.ac.jp/mmrc/dp/pdf/MMRC277_2009.pdf
両方の記事を見て、1990年代半ばに、
「良くて安いもの」から「安くて悪くないもの」
と言う議論があったことを、思い出した。
ここで、「良くて安いもの」と言う発想は、従来品の機能を落とさずに、生産面での工夫などで、コストを下げるか、従来のコストで、よい機能の物を作る、と言う発想である。これは、日本が欧米のような先進国に売り込むための戦略であった。そしてコスト低減は、従来の技術蓄積の上での、改善が主体となる。この場合、原則として従来からあった、社内の規格を守った上での、ものづくりとなる。
一方、「安くて悪くないもの」は、機能面でも過剰スペックは切り捨てると言うことになる。このためには、市場検討をきちんと行い、本当にお客様が求めているものを、明確にする必要がある。さらに、従来の社内規格も根本的に見直し、全体目的のために必要な信頼度の配分を再検討し、最低限コストでの実現が必要である。
このためには、市場検討・開発・設計などのホワイトカラーの間接業務は、擦り合わせの苦労をしなければならない。一方、生産現場では、新興国の工場でも実現できるように、できる限り簡単化しないといけない。間接作業のインテグラル化、直接作業のモジュラー化を行えば、日本のものづくりは海外展開できると思う。
そのためには、ホワイトカラーが十分な仕事をしないといけない。学生時代から、きちんと基礎力を身につけておかないと、この仕事には耐え切れないと思う。
今までの歴史で、人口が増える条件は、食物状況の改善と、衛生条件の改善である。現在の日本では、冷凍と輸送力が確りしているので、多くのものを保存して、運ぶことができる。従って、天候の影響を受けることも少なくなっている。産業革命の一つの成果は、鉄道による食物輸送である。これで、広く食物を供給できるようになった。
一方衛生状況に関しては、日本は江戸時代から世界でも良好な環境である。つまり、排泄物の隔離と処理が確りしていた。イギリスやフランスでは、水洗便所を作っても、処理場が出来ていなかった。日本では、下肥利用を通じて、飲み水に排泄物が混じることは、避けられていた。
さて現在日本は、水洗便所の普及率は高い。しかしこれがどれほど、贅沢なものか考えて欲しい。排泄物処理のために、水を使うなどと言う贅沢は、日本の水が豊かな世界でこそ比較的簡単に実現できる。世界の多くの国では、水を作るのに多くの苦労がある。
しかし、日本のトイレメーカの技術は高い。これは、擬似排泄物で評価する能力が、確定しているかららしい。
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トイレの話をしよう 〜世界65億人が抱える大問題
著者:ローズ ジョージ |
悪い景気の中、経営者の責任を追及していることが多い。確かに、経営者の責任は大きいだろう。しかし経営者一人だけで会社を良くすることは難しい。また逆に、会社を傾けることにも、経営者以外の従業員の責任もある。
そこで思い出したのが、自民党の敗因である。そもそもの自民党議員は、自分ひとりの力で選挙に勝ち、その上で派閥抗争を経て、総理への道を歩んでいた。それが、小泉選挙で一気に、小泉支持と言うだけで当選する議員が出た。彼らは、麻生が悪いので選挙に負けたと言っている。確かに、麻生総理の人気もないが、自分の責任を棚に上げている。
この話しどちらも似ているように感じる。確かに、カリスマ経営者の力で立ち直る会社もある。しかし、従業員の力で立つ会社が、安定しているように思う。
先日「『文系・大卒・30歳以上』がクビになる」と言う本を読んでみた。確かに、事務系のホワイトカラーの仕事は、本当に必要か見直すべきであろう。そこで見直した結果、余剰人員が発生することになる。このブログでも、前に書いたが、
「総合職の値打ちを出せ」
と言うことを、入社後も常に考えて、実力を蓄えないと後々後悔することになりそうだ。
さて、ここで理系の人間については触れていない。著者は、理系の人間は、設計や生産技術など、ものづくりに直結しているので、まだ会社への貢献度があり、リストラされにくいと、考えているらしい。
しかし、私が思うに、理系でも継続して力を磨いていないと、40歳ぐらいで技術革新による新技術に、ついていけなくなる可能性がある。旧式技術に執着している、理系人間もこの本が書いている、文系人間より危ないと思う。
そうならないように、学生時代に基礎教養を確り身につけ、入社後も自己研鑽を勤め、新技術追従に勤めるか、管理職になるような経営のセンスを磨くべきであろう。
| 「文系・大卒・30歳以上」がクビになる―大失業時代を生き抜く発想法 (新潮新書)
著者:深田 和範 |
日経BP のHPで、インテル社の実装戦略に関する記事を見た。これで、一つの昔話を思い出したので、忘れないうちに書いておく。
http://techon.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20091009/176263/
時代は、1975年ごろに遡る。当時インテル社は、半導体のベンチャー企業で、8ビットマイクロプロセッサの8008と8080を相次いで発表した。しかし、この8080は、外部信号のドライブ能力が低く、当時の主流であるTTLロジックの1個分のファン・アウトを取れなかった。そのため、ローパワーのTLLなどを1段間に入れて、バスをドライブしていた。
これを、真似た日本国内のICメーカーは、ファン・アウト1を軽々と実現した。LSI に詳しい人間は、インテル社は
「コモン信号部分のパターンを太くすると言う常識を持っていない。」
と笑ったものである。このような実装上の技術は、社内の伝承として蓄積されていた。
しかしながら、インテル社は、8080などで得た利益を、設計環境などの強化に投資した。そして、16ビットマイクロプロセッサなどをどんどん生み出していった。
この教訓は、経験の蓄積より、技術として見える形にしたことが、進歩についていけたものと思う。
今日は電車で、リクルートスーツの子の姿を何回か見た。その中でも、一人は非常に確りした雰囲気を持っていて、私なら一目で採用したくなりそうだった。ただし、この子が採用されていない可能性もある。その理由を考えて見ると、世の中で就活で苦労している皆さんの参考になると思う。
まず、就職と言うのは、採用する側と採用される人の間での、マッチングである。求人がまったくない企業や、業種を志望しても、採用される可能性はほとんどない。まず、どのような会社が、どのような人材を求めているのか、知っておく必要がある。
次に、『確りした人』と言うイメージである。確かに確りした人は、仕事が出来そうに見える。しかし、これだけでは仕事が出来ない。どんな仕事でも、多かれ少なかれ人と協力する必要がある。このため、対人能力が重要である。冷静に人の話しを聞き理解する。そして適切なタイミングで応答する。更に、他人に対して共感することができる。このような能力がないと、いくら他の能力があっても、採用は一寸と言うことになる。
また、「確りした」と言うだけでは、実際の能力として、説得力がないという見方もある。そこで、どのような対策があるであろうか?
例えば、「銀のアンカー8」では、面接で相手の会社に対して、『企画案』を売り込むシーンがあった。但し、私なら、企画案を単純に売り込むことはしない。まず、3つの案があれば、二つは見せても三つめは、言わない。今あるもの以上のものが出るという、潜在可能性を示すことが大切である。更に、そのうち一つに関しては、企画書的にもう少し詰めておく。単に言うだけでなく、実現に対する配慮をすることが大切である。また、実現できなくても、実現の難しさを知っていることだけでも、売りになることも多い。
このようなアイデアも考えて欲しい。
| 銀のアンカー 8 (ジャンプコミックスデラックス)
著者:三田 紀房 |
あるところで読んだが、日本の教育行政には、以下の3軸の対立があるらしい。
このような対立は、他の所でもあるように思う。ただ1.と2.が、自民党・民主党できちんと分かれていないのも、混乱を生んでいる。また、1.3.の対立だけで考えていたことが、発想を縛っていたと思う。2.の軸を入れ、3軸対立にすると、見えてくるものがある。
これは他の分野でも使えそうだ。
能力高い物を中心に考えたシステムは、そのような能力者がどれだけ確保でき、更に補充ができるかと言う、大きな問題がある。例えば、第二次大戦の初期には、大きな威力を発揮した、零戦だが、初期の威力はそれを使いこなした、名操縦士の腕によるところが多い。消耗戦になり、有能な兵士が戦死すれば、アメリカの物量の前に、どんどん落とされていく。
この零戦の開発初期に、ドイツから来た軍事顧問が、
「零戦は操縦士の訓練に時間が掛かりすぎる。もっと短期で訓練できる、頑丈な戦闘機を作るべきである。」
と助言したが、当時の日本軍関係者は、聴く耳を持たなかった。
軍隊では狙った所に確実に命中させる能力のある兵を、『精兵』と言う。
「精兵がいれば、百発百中の兵が1名で、百発一中の兵百名に良く対抗できる。」
と言う信仰の様なものがある。しかしながら、精兵が一人死ねば、一発で負けてしまう。それで対策として、一般的な能力の兵隊でも命中率を上げるため、連続して弾が出て修正しながら発砲できる、機関銃などを入れて補強していく。しかしながら、機関銃は弾を沢山撃つので、金が掛かる。従って、貧乏国の日本軍では、機関銃などの機械に頼らず、根性で命中率を上げる方針とした。しかしながら実際の戦場では、貴重な精兵が戦死して、補充が出来なくなり、惨敗となる。
しかし、これと同じ失敗を現在の経営者や、管理職が行っているのを良く見る。有能な部下が、十分いると考えて計画し、実際はそれだけの有能な部下を集めることが出来ず、失敗したプロジェクトが多くある。機関銃にあたる道具を、コストが掛かると導入を惜しみ、個人の能力に依存したための失敗である。
大規模な場合には、それなりの道具への投資を惜しんではいけない。
経営者に要求されるモノは色々あるが、正しい直感で選択・決断する力は重要である。このためには、広い視野を持ちバランス良く判断する必要がある。このような能力を磨くために、常日頃以下のことを心がけている必要がある。
経営者に対して、色々な立場で、ものを言う人は多い。ある人は、豊富な知識を裏づけにして、ある人は現場の経験を裏づけにして発言する。これらの発言者には、自分の言っていることに、自信を持ち大きな声で押す人間が多い。
しかし、自分の管理範囲を、全部見て総合判断するのが、経営者・管理者の任務である。視野の広さと責任の重さは、他の人間に換わってもらうことは出来ない。それだけ重い立場にある。
当たり前のことであるが、このようなことを理解せずに、経営者や管理者に単にあこがれたり、無責任に批判する向きも多い。
日本にアジアのハブ空港が一つもないという議論が、関空問題から発展して、色々議論されている。国交相の意見では、
「成田と羽田」
であり、大阪府知事は、
「関空」
である。しかし、ハブと言えるような機能を、これらの空港が満たすのであろうか。ハブと言うからには、色々な国からのお客様を、一旦受け入れて、疲れを癒し、他に旅立ってもらうような、『もてなしの心』が必要であると思う。
日本は、首都圏であろうと関西であろうと、どちらかと言うと目的地であり、中継点で収まるようなものではないと思う。
さて、日本でハブ空港の適任地は何処であろうか。ある程度の国際感覚を備え、
『おもてなしの心』
が確りしている地域として、私が思い当たるのは沖縄である。
沖縄には、現在米軍基地がある。そして米軍基地が沖縄に色々の負担をかけているが、その一方で基地が雇用に大きく貢献している現実もある。
この雇用の受け皿も含めて、沖縄に日本の代表としてのハブ空港を持ち、アジアに対する玄関口として、働いてもらうのはいかがであろうか。
先日テレビ番組で、農業の自動化機器を見た。にんじんなどの収穫も、大きな蟹の鋏みの様な物を持った車で行っていた。
これで、人の苦労は少なくなった。これは素晴らしいことである。
しかし、ここで見落としてはいけないことは、このような機械で収穫できるのは、大きさと形がある程度揃ったものである。
スーパーの店頭では、
「形の綺麗な野菜しかない」
と言う現象は、このような供給側の都合もある。
自動化には、ついていけないものがあるということを見落としてはいけない。
昨日の続きで、論理的な考えについてもう少し踏み込んでみたい。まず、相互の共感を基盤とする発想は、脳科学の面からもある程度支持がある。詳細は、「ミラーニューロンの発見」を見て欲しい。
次に、機能面での動きの追跡と言うことは、思考実験でも使っている手法である。ただし、機能的な動きを真似る時には、何処まで現実で一致するかを、きちんと批判的に見ないといけない。そのためには、一つの手法が何処までも使えると信じる、独断論の世界を経験し、次にその効果を懐疑する。そして、その効果範囲を正しく批判する。このような、冷静な見方が必要である。
さて、論理的な文章の訓練として、一つ思いついたことがある。それは思考実験のレポート作成である。普通の実験のように、思考実験を行いその結果をレポートに書く。そして、これを一般的な法則から演繹的に導いて説明する。次に、現実例から帰納的に同様な結果が導かれることを検証する。さらに、反対の場合も検討し、結果を何処まで一般化できるか、確り批判を行う。また、結果の検証手段を明確にしておくことは、過度の一般化で誤解に落ちた時、引き返すための良い判定手段となる。
このような発想はいかがであろうか?
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ミラーニューロンの発見―「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 (ハヤカワ新書juice)
著者:マルコ イアコボーニ |
昨日の現代文の参考書から、もう一度論理的な文章の意味を考えてみた。私の今までの経験では、論理的な文章は、必要な概念の定義がきちんとしてあり、一般的な法則などから、具体的なことがらを導き出す、演繹的な展開か、多数の事例から、共通的なものを導き出す、帰納的な展開を行っている。しかし、言語の基本機能に立ち返れば、書き手と読み手の間に、間違いのないコミュニケーションが成立すれば、十分目的を達成していることになる。
そこで考えると、読み手が書き手の心情を思いやり、シミュレーションすることが出来れば、十分目的は達成できている。さらに、ある程度の範囲の人材が読んだ場合に、共通の結果になる場合には、客観的な有用性もある。つまり、広い意味での『論理性』を満たしていることになる。
狭い意味の三段論法など、西洋文明で示された『論理』にこだわらず、本質に戻って考えてみたい。ただし、西洋論理の形式は、比較的習得しやすく、記述しやすいことは、確かである。実用的なものとして、訓練してみればよい。
伝説の大学受験国語参考書と言う評判の本を見た。(読んだとはとてもいえないので、『見た』と表現した。原本は1959の刊行)
確かに、現代文の解釈について、
論の展開を正確に「追跡」して論旨を把握すること。
と言う方針は、同感である。そのための例題を、選りすぐり、260ページに収めたことも立派だと思う。この本の例題をきちんと行えば、現代文の読解能力は、かなり強化されると思う。
但し、2つ気に入らない点がある。一つは、「事実」と「意見」の分離が出来ていない。この本で取り上げている、論理的な文章は、ほとんが意見であり、一部のその証拠があるにすぎない。本当に論理的な議論を身につけるためには、事実とそれに対する意見を、きちんと分別することが重要だと思う。
そしてもう一つは、近代思想の啓蒙書と言う性質を、併せ持っている点である。国語の読解と言うのは、それだけで重要なスキルであり、それ単独で身につけるものと思う。中途半端に価値観が絡んで文章を選別することは、冷静に情報を読み取る能力を疎外すると思う。
しかし、国語能力を訓練するには、良い本だと思う。
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新釈 現代文 (ちくま学芸文庫)
著者:高田 瑞穂 |
昔の小学校では、漢字の書き取りや、算数の計算など、くり返しのスキルを身につけるため、宿題を出していた。しかし現在の『ゆとり教育』では、このような繰り返して、スキルを身につける機会が、少なくなっているように思う。
スキルは繰り返して身につけるものである。そのような訓練が出来ていないのではないかと、近頃思うことがある。
前原国交相と大阪の橋下知事との会談は、今までの政治家の話よりは進化したと思う。なぜなら、橋下知事は、関西に3空港も要らないと明言し、伊丹空港のあと処理まで明言した。更に関空までのアクセスに関して、提案している。このように一つの流れを示した話しは、今までの政治家の話として、あまり聞いた記憶がない。特に、廃止側の話しは、出ないことが多かった。
また前原国交相の方も、羽田のハブ化と言う、一つのストーリを感じる。
更に両者の発言として、有限の税金の使い道と言う発想がある。これが出てきただけでも大きいと思う。
今回の衆議院選挙での自民党の大敗は、今までの崩壊の歴史の集大成であったと思う。そこで組織が壊れる状況のケーススタディとして、もう一度見直しておきたい。
まず自民党と言う政党自体、かなり矛盾と言うか、多様性を無理に押し込めた政党である。『保守』と『自由主義』、『民主主義』が、一つの政党になること自体も、かなり無理がある。確かに、『資本主義vs共産主義』の対立時代には、『親米路線』と言う一本の軸があった。反ソ路線は共有しながら、政権を交代する派閥抗争も、存在価値ああった。しかし、ソ連崩壊後には、『政権与党』だけで、無理やり合わせていたように思う。基本的には、『自民党』は『自分党』であり、立候補者一人一人の能力を有権者が信じて、投票していた。
そして、小泉政権と言うか、郵政選挙では、一人の指導者に合わせて、多くの議員を当選させると言う事態が生じた。ただし、公明党との選挙協力の時代から、個人の選挙能力は徐々に落ちていたのも事実である。そして、郵政選挙で大勝したが、その後セの選挙結果は、郵政民営化だけであり、少なくとも小泉首相引退後は、その選挙結果の効力がないことに、自民党政府が対応しなかったことが、国民の怒りを買ったと思う。
また、もう一つ言えば、二世・三世議員が増えたが、彼らの個人能力に、選挙民が疑問をつけたことも大きい。二世三世は選挙で苦労していないだけ、現場感覚が無くなったのだと思う。
更に、郵政民営化選挙も、小泉が買ったのではなく、「亀井静香のバラマキ」をとめたいと言う、国民の意志があったと思う。
「小泉・竹中路線が日本的経営を潰した。」
と言う人があるが、私は日本的経営を潰したのは、
「亀井静香的な恫喝的手法が、日本的経営者の老害を皆に示しそれに反発した人が、小泉・竹中路線を選んだ」
と考えている。つまり、亀井大臣が日本的経営の悪い所を国民に明示したのである。これを考えると現政権に、亀井大臣がいるので、自民党にも巻き返しの機会があるかもしれない。
しかし、今度の総裁選のお粗末さを見ると、これも難しいのかなと思う。もっと頑張って欲しい。
日本語の"技術"と言う言葉には、英語で言うと2つの訳語があるらしい。
1)Mechanical Art:器械技 Liberal Art:上品芸=芸術と対比して使う
2)Technology
これに対して、誤解を招く不幸なことだと言う大学の先生がいる。確かに、テクノロジーは、『論理』を伴った『発見への働きかけ』と言う意味がある。ある人は、
「技術は露にするものである」
と表現している。一方、アートと言う意味には、『技』と言う意味合いがあり、言葉で表現できない要素を含んでいる。これはテクノロジーとは、相容れない概念である。しかし物を作る場合には、現実世界の複雑さに対して、数式だけでは及ばない部分がある。そのような部分を経験等の、『言葉で表せない智慧』で対応しているのが、工業製品つくりの現場である。ある人はこれを『暗黙知』と称している。特に、日本のものづくりの現場では、このような『智慧』を上手く活用して、『擦り合わせ』のもの作りを行っている。
このように考えると、"技術"の訳語に2つの意味を交わらせたのは、日本のものづくりの知恵ではないかと思う。
<参考>笠原正雄「情報技術に向かう姿勢・その基本」電子情報通信学会誌平成21年10月Vol.92№.10 p886~p892
日経BP社のHPで、日産GT-Rの開発者との、インタビュー記事があった。この中で、最新の記事は、
「説明できる商品」では世界なんて狙えない!
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20091007/206503/?P=3
であった。確かに開発者は、利用者の視点や、車の細部まで見える目を持っているので、社内の他の人間には、見えないものが見えているのだろうと思う。そのような目を持っている人間と、もっていない人間の間では、対話による説明などは不可能である。しかし、これだけで製品実現ができるかと言うと、大抵の場合は難しい。
日産の場合には、トップにゴーン独裁者が存在している。彼がゴーと言えば、問答無用の実現が可能である。この図式は
カリスマ開発者+独裁的経営者
である。しかし、これは本来の日本組織には、似合わないと思う。
本来の日本的な組織には、カリスマや独裁は似合わない。
和を持って貴しとなす
が日本の流儀である。開発設計者のデスクワーク者から、現場の作業者、試験者そして利用者までが、共感を持っているのが、一番強い物づくりである。しかしながら、この場合には、常識的なものしか出来ず、革新的なものができにくいと思う。
全員一致は、無難な所に収まる
これも一つの経験則である。そこで理想的なことは、社内関係者が理解して物を作ることである。お客様に対しては、製品が出来てから、広告で対応することもできる。このため、教科書的な言い方では、
「開発者は社内関係者を説得できる力を持つべし」
と言うことになる。しかし、ここで『説得』と言うことが難しい。現実的には、
「関係者が何かわからないが納得する」
と言うレベルまで、持ち込めば上出来である。このために、『暗黙知』の存在や、日本的なつながり重視などと言う人がいる。また、経営者や管理者の資質として、
「曖昧な状況で決断する」
と言う人もいる。そして、
「XXと言う人を信じろと伝える」
のが管理者経営者の仕事と言う人も多い。但し、経営者や管理者頼みでなく、開発者・設計者自体が常日頃の行動から、周囲の人の信頼を勝ち得るようにすることが重要である。そのためには、間違っても
「自分が~~を知っているから偉い。 XX大学を出たから偉い。」
などと言うことは、思っていてはいけない。一方その他周辺に対して、必要以上に卑屈になってもいけない。そして、
「お互いに、人間として尊重する。そして自分は義務とそれ以上のことを常に果たす。」
行動することで、最後の信頼が生まれると思う。このような社員を育てることが、経営者・管理者の仕事であろう。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20090930/205954/
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20091007/206503/?P=1
光市事件の実名出版について、是非の議論が色々ある。この事件自体について私は詳しく読んでいないのでコメントできないが、関連したことを一言述べたい。
今回の著者は、『大学職員』と言う、少なくとも一般市民に対して、権威を持った働きかけができる立場である。私も覚えがあるが、一方的に家や勤務先に、
「研究のために必要だから調査に協力してください」
と言う文書が、送りつけられてくることがある。このような文書を受け取ると、協力しないと何か追及されそうな、気がする。特に、団塊の世代で大学紛争時の糾弾を経験している身には、『進歩的知識人』の追求には今でも恐怖心を覚える。テレビでよく出ている、T教授や書籍で有名なU教授の追及を受けるような恐怖を感じてしまい、協力しないといけないのでは考えてしまう。
「研究のため」と言う言葉に、一般人には、このようなプレッシャーをかけているということも、知っておいて欲しい。
大阪の橋下知事が、部下からのメールの無礼な対応に関して、厳罰で臨むと言う姿勢を示した。これは、従来の彼の限度とは矛盾しているように見える。橋下弁護士と言えば、茶髪で法曹界の権威に反していた。そういう意味では、無礼講の動きが、彼に似合っているように見える。
しかし、組織を動かすためには、ある程度の形も必要である。改革の初期には、型破りの行動を行っても、組織を安定させるためには、礼儀を含む形式を整える必要がある。橋下知事が、大阪の経済危機を皆に浸透させた後は、組織固めに入ったとしたら、それは運営として正しい決断といえよう。自分の影響下の、堺市長誕生もあり、潮時を良く見ていると言えよう。
但し、ここから権力の恐さも生じてくる。権力の取り込まれ、自分の力以上のものがあるように思い込んでしまう。このような落とし穴もある。特に側近が権力を持つために、飾り物としての長を担ぐようになれば、最悪である。そのような手段の形式化の可能性もある。
これからきちんと見守っていく必要がある。
このブログのアクセスが、110000を超えました。(トップページのカウンタ表示は、携帯からのアクセスが入っていないらしいので、違った値になっています)これだけ、見ていただいた読者の皆様に感謝します。
記事数にして、1760と言うのは、結構多いと思います。このうち、10%ぐらいの記事が、長く生き残ってアクセスいただいています。特に就職活動関連では、別途作っているホームページにも、ある程度のアクセスを頂いています。
これからも、頑張って多くの方々に、訪問いただけるようにしますので、ご愛顧のほどよろしくお願い致します。
「銀のアンカー8」を読んだ。内容を明かすことは避けたいが、この本に書いている、就活の心得には、同感と言う部分も多い。特に地道な努力や、失敗を恐れないと言う考えは重要である。
但し、一部気になるものがある。一つは、
「企業の中に異質なものが必要」
と言う発想である。確かに異質は必要であるが、実際は、基礎が確りした上での異質が必要である。特に、工学部では、大学間の基礎学力の差が大きい。そこで異質なものを求めるときには、基礎力が確りしている方が望ましい。
そういう意味で、奇を衒って成功するのは、やはり有力校のほうが多い。それより地道な正攻法のほうが良いと思う。
なお、この本の最後にディベートの話しが出ている。私の好みでは、ディベートは勝敗にこだわるので、あまり面白くない。それより論理性を活かすには、説明力をつける訓練が重要と思う。この本の後ろに、K女傑の匂いを見るのは、私だけだろうか。同じKでも香山リカさんの本が私は好きである。
| 銀のアンカー 8 (ジャンプコミックスデラックス)
著者:三田 紀房 |
| しがみつかない生き方―「ふつうの幸せ」を手に入れる10のルール (幻冬舎新書)
著者:香山 リカ |
現在のような、インターネットによる知識入手機会が増えた場合には、従来のように単に知っていると言うことの優位が無くなって来た。その代わりに、必要な知識を使えるようにすることが重要になってきた。
これを、三段論法の図式で考えてみよう。従来の「知っている」と言う話しは、大前提を、持っているということになる。他の人が知らない大前提の存在が、優位性となっている。現状に対し、大前提を適用するように、小前提を作っていく。これが、知識ある人間の推論となる。
しかし、現在は、多くの一般論が溢れている。つまり大前提過剰である。従って、現状の記述である、小前提の部分に当てはめる、大前提の発見が重要である。ここでは、どのように概念を抽象化するか検討することが重要である。
現在の知的労働者は、このような仕事が必要ではと思う。
理性的な論理展開の道具として、三段論法がある。これは以下の様な構図をもつ。
[大前提]人間は死ぬものである。
[小前提]ソクラテスは人間である。
ーーーーーーーーーーーーーーー
[結論] ソクラテスは死ぬ。
つまり一般論を大前提として、個別の事例を小前提として、当てはまるかを推論するものである。これは、大前提に含まれていることを、個別の現実に当てはめるので、分析的な推論と言う。これは、実質情報が増えるのでなく、大前提に含まれていることを、明らかにしている。
一方、小前提と大前提のつながりが、普通の人間には思いつかないことなら、綜合的な推論となる。創造的になる為には、綜合的な推論を使う必要がある。
あるところで聞いた意見であるが、
「アメリカは作られた国である」
と言う意見に納得してしまった。確かに、清教徒の移民たちが、自分の理想を実現するために作った国と言うことでは、「作られた国」である。
ここでもう一つ、ヴィーコの名言
「正しいものは作られたものである」
と組み合わせてみよう。このように「正しい」と言い切れる力があれば、
「正義の実行」
にためらうことがないであろう。アメリカの正義の押し付けには、このような面もあるのではないかと思う。
管理職の訓練として、日本の場合には、部下の言うことを聴く、積極的傾聴法を行うことが多かった。しかし、どこかで見たが、中国では、指導者の訓練として、軍隊の経験をさせることがあるらしい。
この理由を少し考えてみたい。まず日本の管理職は、部下の能力を引き出すことが、重要任務となる。成果は部下が生む。それがうまく行くようにするのが、管理職の仕事である。一方、中国の発想は、「指導者の言うとおり部下が動いて、成果を出す」である。そのため、軍隊的な命令の届かせ方を経験するため、管理職や経営者が軍隊で訓練することになる。
なお付け加えれば、日本の場合には、新人のときに、自衛隊に入れて、命令に服従させる訓練をすることもある。それ以外にも、命令服従の訓練をすることが多い。そのような経験で必要時には命令服従の条件をつけた上で、個人を活かすような仕事をする。これが、正しいように思う。
経営者の信念で、イノベーションを起こす。これは一つの形である。しかし、社員の自発的意志が一つの向きに揃った時、大きな力を発揮することも多い。個人の力で指導者が引っ張るのか、組織全員の合意が良いのか、情況に応じた対応が必要である。
しかし、指導者は部下が考えると思い、部下は指導者の指示待ちと言うのが一番困る。
今朝のNHKテレビの『ルソンの壺』で、錆ないボルトを取り上げていた。確かに、鉄のボルトが錆びたため、強度が低下した事故の例は多くある。
しかしながら、表面だけの錆びは、ボルトとナットの結合を強くしていることもある。
一面だけの見方でよいだろうか?
自然界に発生する現象は、本来複雑なものである。しかし、物理学では数学的に記述できる関係を、何とか見出して成果を積んできた。そこで使われた、数式の多くは、使いやすい線形微分方程式が多い。そのため、自然界の現象は、線形な現象だと誤解している人も多くなっている。確かに、線形の場合は、個別に計算し、重ね合わせることができるので、取り扱いが楽である。但しこの、線形での記述はあくまで、近似である。
しかしながら、現実の世界は、本来非線形の複雑なものである。それを忠実に記述すると、非線形方程式になり、数式処理は手計算では難しい。しかしながら、現在のIT技術では、数値計算を繰り返すことで、強引に非線形な式も処理してしまう。
計算道具の進歩が、自然の見方も変えてきた。
但し、昔から心ある技術者や物理学者は、自分の知識は限られたものであり、自然の前に謙虚に対応していた。現在の計算技術での記述も、まだまだ大自然の前には、子どものようなものである。これを忘れると恐いことが起る。
現在、LEDを使った照明が、電力の有効利用と言うことで、注目されている。確かに、LEDの電気エネルギーを光に変える効率は高い。しかも、白熱電灯や蛍光灯のように消耗する部分がなく、長寿命と良いことばかりが並んでいる。消費電力で1/3、寿命は20倍と言うデータもある。特にこの長寿命なら、ソケット式の電球取替えせずに、壁に埋め込みなども出来そうである。
しかしながら、私の考えでは、LED照明にも落とし穴がある。まず、その一つは発光原理の違いによる、単一周波数への偏りである。人間の目で見たときには、白色としか感じられないかもしれないが、特定の波長の光を強く受け続けた時、目に何か負担が掛かるように思う。このような研究はあるのだろうか?
もう一つは、「LEDとは半導体回路である」と言う認識が、欠けている議論が多いように思う。半導体回路では、常識である熱設計、特に放熱が大切である。この部分が、確りしていないと、20倍の長寿命と言うものは、絵に描いた餅になる。
特に半導体製品の組立ては、電球のように物作りの伝承技術のないところでも、物が出来てしまう。そこで、電球のような厳しい条件で、使える製品を作れないようなところでの物作りが行われる危険性もある。熱設計や、振動・耐衝撃などの機械的な設計も、十分行う必要がある。
上記の観点で、LED照明について考えるべきだと思う。
裁判員制度のおかげで、法律が素人の世界に近づいてきた。さて、この中で、弁護士や司法書士などの法律のプロの立場はどうなるのであろうか?
私の考えでは、単に知っていると言う状況では、素人とプロの差をつけるのは難しい。しかし、素人が智慧をつけた段階でこそ、専門家の凄さを見せると言うこともある。智慧ある素人が、本当に敬意を示す専門家であって欲しい。
すぐれた会社や、スポーツチームの強さの秘密を、
「当たり前のことがきちんとできる」
と言うことがある。この意味を、もう少し突っ込んでみたい。まず、そのチームにとっては『当たり前』だが、他のチームとっては、出来ないと言うことがある。その理由を考えてみると、体のつくりのような、基礎体力が違っている場合がある。またこれを実現できる、スキルが身につけるために、多くの時間がかかり、他では出来ていないことがある。
また、もう一方では、誰でもできるが、それを実行していないということもある。例えば、規則を守るという単純なことでも、完全にできる会社とそうでない会社がある。
このような場合にも、出来ない原因を追求していくと、どこかで規則に無理があったり、社員個人のスキルがついていけていない場合がある。
真の原因を潰さずに、結果としてわれわれは出来ていないというのでは、何時までたっても進歩はない。その前に、彼らと自分の『違いが判る』ことが重要である。このように段階をきちんと踏めば、物事は良くなっていくものである。
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