日本人のコミュニケーション
日本人のコミュニケーションは、話し手と聞き手の間に、ある種の共有感覚があることを、前提としている。そのため、短い言葉や身振りだけで、相互の理解が行われることを、一つの理想としている。極端な話しは、5・7・5の俳句である。正岡子規の写生主義でも、「柿」、「鐘」、「法隆寺」と言う3つのキーワードだけで、その感触を伝えようとしている。
更に禅問答ならば、手を差し出すだけでも、当人の悟りの心境を評価しようとする。このようなコミュニケーションは、その分野の全体が判っている人が、一番判りやすいと言うか、間違いやすい所を見出して、そこを確認する方法である。確かに技術者の会話でも、相手の技術力を測るために、本当に難しいところを試すことが、行われている。逆に試し方で、相手の技量を測ることもある。例えば、材料力学や構造力学の知識を、長方形の定規を振るだけでも、示すことができる。縦に振るのと、横に振る違いである。また、捻って見せるのも、なお良い。
さて、このような世界では、知識の有無が、コミュニティに入る条件となる。しかし、現在のインターネット社会では、知識の入手コストが低くなっている。しかも、発言の敷居はもっと低くなっている。そこで、勉強をしてから発言しろなどと言うと、コメントなどで袋叩きにされる可能性もある。これは、インターネット社会が、
「アメリカ文明の社会で、市場参入は封じてはいけない。但し、市場での淘汰を行うので、利用者の自己責任で判断すべき」
と言う、論理で動いているからである。これは、確かに一理ある論理だが、日本的コミュニケーションとは真っ向から対立する世界である。
小泉・竹中改革が失敗したのは、上記アメリカ式論理を、強引に押し付けようとしたからではないかと思う。但し、専門家に依存が強くなりすぎ、一般人の意見を殺すのも困った物である。そういう意味では、今までの日本は、官僚など専門家が強すぎた。これいにたして現在の政策評価などを、公開する動きは、大きな進歩だと思う。特に、専門家は自分の範囲にこだわりすぎる面がある。総合的な判断は、素人の目がよく行き届くことが多いこともある。
| 固定リンク


コメント