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2011年10月 9日 (日)

高文脈依存性の中での主体性発揮のために

 前にも書いたが、日本語のような文脈依存性が高い社会で、自分の意見を持つためには、全体像を自分で保有する必要がある。全体像を作るには色々な方法があるが、大きく分けると以下のようになる。

  1. 既存の別分野モデルの類推
  2. 新規に作る

そこで新規に作る場合にも2つの考え方がある。

  1. あるものを観察して地図を書くように作成する
  2. あるものの機能を自分で考えて設計図を作る

 今回は、上記の新規作成について思うところを書いてみたい。まず、観察する姿勢の場合には、見たら判る真実と言うものが存在するという前提である。これは、日本人特有の華厳経信仰の力があると考える。明恵上人の「あるべきようは」は、この一つの根拠になる。漱石の夢十夜の第6夜に出てくる、運慶が仁王を彫りだす発想である。
 一方、自分で考えて設計図を作るという場合には、概念装置を自分で作り組み合わせていくプロセスが入る。そこで重要なことは、この概念装置が見落とすものがあるということである。ヴェーバーは、このようなバイアスが入るという前提で議論することで、価値観の影響を最小限にする、価値自由を得るとしている。
 私の意見では、概念装置でたたき台を作らないと、複雑な正解のモデルはできないと考える。但し、間違いの可能性は必ずある。そのような謙虚さが必要である。パースの可謬主義は心得るべきであると思う。

 ここまで書いて、日本のヴェーバー研究者が、間違った理由も見えてきた。職業としての学問での「事実をして語らしめる」に関する誤訳問題の一つの答えではと思う。

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