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2011年10月 9日 (日)

学校教育について

 日本の学校教育は、どちらかと言うと考えさせるより、知識の詰め込みと言う感じが大きい。この理由について2つほど仮説がある。
 まず一つは、ここしばらく取り上げている、高文脈依存性である。前提になることを知らないと、会話に加われない。例えば短歌の世界では、歌枕を知る。本歌取りの場合には、元の歌を知らないといけない。俳句は季語を知らないといけない。太平記では、後醍醐天皇が流されたときの、
  「天莫  空勾践 時非無范蠡」
は、中国の故事を知らないと理解できない。
 このような共通知識が豊富なのが、この国の文化であろう。落語の落ちも故事を知らないと、笑えないものが多い。

 一方、戦後の教育の特殊事情もある。今まで、「鬼畜米英」と言っていた教師が「マッカーサー万歳」と変節するわけである。まともに考えれば、「お国のために死んで来い」と言っていた教師の責任追及は自然に生じるであろう。
 そういう余計なことを考えず、
   「先生の教えることをよく覚える」
優等生を作る必要があったと思う。

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