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2012年1月15日 (日)

正解主義からの自由

 今の日本社会には、
   「正解を求める」「前例を求める」
”正解主義”がはびこっている。しかし、原発事故や東京電力のような超大企業のトラブルなど、前例のない状況では、想定外と言うことで対応できなくなる。
 そこで、正解主義からの、決別と言う意見が出てくる。
 この一つの例として、国語の読解問題がある。文学作品の中に出てくる、登場人物の心境などに、成果があるといえるのであろうか。実際ある現代文の問題で、問題文の原作者がその問題を解いたら、不正解とされたという伝説がある。このように、一つの正解でなく多様な見方を考えさせる。その中で、より良いモノを考えるのが、現実社会で役立つ人材である。
 この意見には一理あるが、間違った使い方の危険性がある。どんなことにでも正解はないと、自分勝手なことを言い出す人間が出てこないか心配である。
 私の考えでは、正解主義が使える部分を正確に区別することが重要であると思う。正解主義は、絶対ではない。しかし使えるところでは使うべきである。例えば、国語でも論理的な文章では、十分正解があるはずである。また文学的な作品でも、選択肢をうまく作れば、絶対間違っていると言うものの中から、正解を選ぶということは可能だと思う。小学校ぐらいはこのような仕組みで進めるべきではと思う。
 一方、高校ぐらいからは、正解は一つではないという議論も考えるべきであろう。アメリカでは、中学ぐらいまではスポーツはルール内でやらせる。一方、高校ぐらいからは、自分でルールを考えさせるということを聞いたことがある。このような発想で、正解主義を自由に使うことが大切ではないかと思う。

これに関連して、昔作ったメモをアップしておいた。誰かが立つようしてくれれば幸いである。

http://homepage3.nifty.com/manabizz/seikaishugi.pdf

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