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2013年6月13日 (木)

禅について

 若いときに、マルクスか禅にかぶれるという話があるが、私は高校時代に読んだ『公案:実践的禅入門』から色々と影響を受けた。しかし、これが本当に解ったと、自分で納得したのはつい先ごろである。
 例えば、この本が最初に取り上げている
 「倩女離魂(せいじょりこん)の公案」に関しては、
 芥川の「藪の中」の解釈を考えているとき、

それぞれが救われるなら、それぞれの解釈の世界があってもよいのではないか?
御仏の力でそのような複数の世界の実現ができるのでは

と思うようになった。すると、「倩女離魂(せいじょりこん)の公案」も同じではないかと理解できるようになった。もっとも禅僧の前に出れば、

お前がそれを実現しろ

と言われるかもしれない。「百丈野狐」の公案でも、色々な見方で、因果と言う場合もあるし自由という場合もある。仏の立場で、広く見ればつながる因果も見えるし、自由な道も見えるように思う。

 一方、「雲門日々是好日」に関しては、同書の中で、著者が

「一度座布団の上で死に切った人間でないとこれは言ってはいけない」

と書いている。これの意味は、台密と法華経の来世成仏の思想を考えれば、一度死なないと仏と一体になれない。つまり生きながら来世の成仏を実現すると言うことを、死ぬという表現をしたように思う。確かに千日回峰行でも、日蓮宗の百日荒行も、一度死んだ高僧が皆を救うと言う図式である。
 このような、広い基盤がないと、禅を単に知識で考えるのは、難しいのではと思った。

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