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2013年7月15日 (月)

「職業としての学問」を読む(その10)

 ヴェーバーは、学問の歴史で、主観的な価値判断を扱うときは、いつも事実の完全な理解が妨げられていることを、キリスト教の教会制度に関して、カソリック教徒とそうでない場合の評価の違いを例に示す。大学教授は、カソリック教徒とそうでない学生の両方が満足するように、知識と学問の方法を伝えないといけない。しかし、敬虔なカトリック教徒は、例えばキリスト教成立当時の事実に関し、「奇蹟」や「啓示」を除外した、『学問的』な議論には決して服さないであろう。
 しかし、もしキリスト教の発生当時の出来事を、超自然的なことを排除して説明するべきならば、これは「学問的」な方法がとる形で説明する。これなら、信者にとっても受け入れることができる。

 この部分は、日本人にとっては納得しにくい形だと思う。日本の「敬虔なカソリック信徒」が、聖書に書いている通りに、「全ての人間はアダムとイブの子孫である」と、心から信じているとはとても思えない。実際私の知っている、毎週日曜日には教会に通うカソリック教徒は、教義として「洗礼を受けて始めて人間として生まれる」と言うことを知っている。しかしこの裏返しの、「洗礼を受けていないものは人間ではない」と言う発想には、嫌悪感を覚えている。
 しかし、日本以外の国(中国などは解らない面があるが・・・)の多くは、信仰しているものは、真実のあるべき姿と思っているのである。このことに配慮しなければ、真の国際化などはできないと思う。

 さて、ヴェーバーの話に戻す。ヴェーバーが、教師の仕事として大切としたのは、弟子たちに「都合の悪い事実」を承認することを教えることである。これを、「徳育上の功績」と言う。
 これは、大きなことである。民主主義の一つの条件として、「反対意見を言う権利を認める」がある。また科学の研究姿勢として、反証を求めることも同じ発想である。
 実は日本の戦前からの、ヴェーバー研究者の一部には、「戦時中の自分の戦争協力的な一面」に目をつぶり、活動したとしか思えない人がいる。これに関しては、現代思想2007年11月臨時増刊「総特集:マックス・ウェーバー」の、p136~p156にも三笘利幸氏の議論を見て欲しい。

続く

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