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2013年7月15日 (月)

「職業としての学問」を読む(その11)

 個人的な強制できない深い理由として、ヴェーバーは宗教的な対立を指摘する。つまり、世界のさまざまな価値秩序の対立は、たがいに解きがたく、宗教的な対立になる。
 ジェイムス・ミルの以下の発言をヴェーバーは支持する。

もし純粋な経験から出発するなら、人は多神論に到達するであろう

つまり、自分の経験だけを根拠に話をする人間は、他の物を受け入れない、自分だけの神を信仰する。また、美しさと神聖さ、善と美しさは相矛盾する要求になることは、よくあることである。このような価値秩序の神々の争いは、フランスの文化とドイツの文化の比較して「学問的に」価値を決めるなどは、とてもできないとヴェーバーは言う。
 このような地域の争いは、古くはギリシャのポリスのポリスの守護神の争いまで遡るとヴェーバーは考えている。この神々の争いの決着は運命が決めるモノであり、「学問」が決めるのものではない。

学問が把握しうることは、それぞれの秩序にとって、あるいはそれぞれの秩序において、神にあたるものはなんであるかということだけである。教室で教師がおこなう講義も、この点を理解させることができればその任務は終わるのである。もとより、その講義のなかにかくされている重大な人生の問題は、これで片づいたわけではないが、この点については、大学の教壇以外のところにある別の力が物をいうのである。

この話は、日本人の宗教観とは全く異なる前提で理解しないといけない。その部分を書くと長くなるので、いったんここで切る。

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