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2013年7月16日 (火)

「職業としての学問」を読む(その13)

 次にヴェーバーが述べたことは、教師と指導者の違いである。この話は、現在の日本の色々なトラブルの原因とも関連するので、しっかり議論していきたい。
 ヴェーバーの定義では、教師の任務は、知識と方法を教えることである。言い換えれば、情報を売ることである。一方、指導者は、全人格的な方向付けを与えるものである。今までのヴェーバーの議論から言えば、指導者は「前提」となる価値観などを示すが、教師は「前提」を与えられた後の議論の展開を教えるだけである。
 この説明に、ヴェーバーはアメリカの事情を例にとって説明する。この部分は、現在の日本に対する痛烈な批判としても、興味深いものがある。

アメリカの生徒は、ドイツの生徒に比べて比較にならぬほど少ししか教わらない。だが同時に、信じられぬほど多くの試験を受けなければならないにもかかわらず、彼らはまだこちらの生徒に見られるようにコチコチの点取り虫になっていない。これはアメリカの学校生活の意味がこちらとは違うからで、アメリカでは合格の免状を官界への入場券と考える例の官僚主義がまだはじまってまもないのである。 p58

 さらに、アメリカの青年たちは、伝統や社会的地位に対し敬意を払わず、人々の個人的業績だけを重んじる。これをアメリカ人は「民主主義」と呼ぶ。彼らは、「世界観」や生活の基準になる原則を、教師に売ってもらう気などはない。

 このように、ヴェーバーは、当時のアメリカの学生気質を、極論した。この図式で、今の日本を捉えるとどのようになるかは、興味深いものがある。まず、日本の戦後は、アメリカ的な影響を受けたので、教師の立場は「教育労働者」として「知識を売る」ことになっている。しかしながら、就職と学歴の関係から、コチコチの点取り虫は、多く存在している。また、一部の教師には、指導者として、世界観を教えようとしたり、全人格を尊敬しろと言う態度も少なからずある。戦前の教育勅語を、マルクスの著作に置き換えただけの教師と言う感じの者すらいる。

 さて、ヴェーバーの見解に戻す。ヴェーバーはこの後、指導者としての資質を持つ人間が稀であることを指摘する。特に大学教授にその性質があるかは、証明すべき手段がない。しかし、大学教授には指導者ぶることが一般に放任されている。これを大きな問題としている。世界観や党派的な意見を表明するのは、相手が批判し反論できる場で行うべきであって、教室のように聴き手が沈黙を余儀なくされる場で行うのは正しくない。

 このヴェーバーの意見は民主主義の基本であると思う。

続く

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