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2013年7月11日 (木)

「職業としての学問」を読む(その2)

 さて、岩波版「職業としての学問」は、3つのブロックに分かれている。第一は学問を職業とすることに関する、現状の話である。ここでは、アメリカの大学とドイツの大学の比較で議論を展開している。このように、比較を用いて社会の現象を研究するのは、ヴェーバーの方法論の大切な部分である。これについては、折原の補注p236~p242が、比較的わかりやすく書いている。
 次に述べている部分は、学問を職業とする人間の心構えである。特に専門分野への注力と細部へのこだわりの重要性を述べている。また学問の進歩による自己否定の可能性についても述べている。
 最後に、学問の職分、特に限界に関する議論がこれに続く。特に教師たちに対して、自己の主観的評価や世界観を学生に強いてはならない。但し、此の姿勢に関しては、「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」で解かれている、『価値自由』の概念を、本当に理解していないと誤解を招く恐れがある。

第1部 学問を職業とすることに関して

 ここでは、大学の教官として働く可能性について議論している。この部分は、大学で働く可能性のない人間には、あまり参考にならない部分も少なくないが、前述の社会科学の検討方法として、アメリカの大学とドイツの大学の比較検討を行っている、方法論の実例としての興味はある。

 我々には、ヴェーバーの言うアメリカの大学制度は、日本の大学制度に近くなじみがあるが、ドイツの制度は、かなり異なっている。当時のドイツでは、学者の道はまず『私講師』から始まる。講師としての資格を教授たちに認めて貰った後は、学生の聴講料だけで無給生活を送らないといけない。つまり、金銭的にめどが立たないと、ドイツでは学問に携わることは難しい。 一方、アメリカでは、助手としての任用から始まるので、安定した地位からスタートする。ただし、アメリカの助手は、いつも解雇の危険性にさらされている。

 しかしながら、ドイツの大学制度もアメリカの制度に近づきつつある。特に研究手段が国家資本主義的事業となることは、研究所助手は「プロレタリア」のような不安定な立場におかれる。このような資本主義的かつ官僚主義的な経営は、ドイツの大学の伝統的気概とは一致しない。尾高訳では、アメリカの制度を技術的意味の進歩と書いているが、原本はそこまで言っていない。

 大学の人事は、番狂わせが起きるが、適任者が選ばれることが多い。しかし教師に選ばれるのは僥倖である。

 大学教師は、学者としての資格と教育者の2面性が必要である。この2つの能力は常に一致するものではない。講義の人気で大学での命運が決まることがある。

 結論として、大学での仕事は甘くない。

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