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2013年7月13日 (土)

「職業としての学問」を読む(その7)

 さて、いよいよ最後の段落である、学問の職分、特に限界に関する議論になった。
 ヴェバーは科学観の歴史的な変化に着目する。まず、「概念」の有効性について、プラトンの『洞窟の比喩』から議論を始める。ソクラテスにより、初めて学問的認識に通用する「概念」の力を意識するようになった。

永遠の真理は、真理に盲目な人人の行動のように移ろい行くべきものではない。
~一部略~
もし、美だとか、善だとか、また勇気だとか、霊魂だとか、その他なんであれ、それについてただ正しい概念をみつけだしさえすれば、同時にそれの真の実在も把握しうると感がられたのである。  p38

 次の手段は、ルネサンス期に始まる、合理的実験である。実験で経験を確証する。ここから経験科学が成立した。この時代は「学問は自然の真相に到達するための道である」とも考えていた。また、学問は真の芸術に到る道でもあった。しかし、この講演の時代(1919)では自然一般に立ち帰るためには、逆に、学問の主知主義をを脱しなければならないという考えが、若い人には強かった。
 しかし、精密自然科学が成立した当時には、「神への道」をも目指していた。

「余はここに一匹の虱を解剖して諸君に神の摂理を証拠立てよう」
~一部略~
このことばからして諸君は、当時の(間接的に)新教、特に清教主義の影響を受けつつあった学問研究がなにをその固有の課題としたか知ることができよう。それは、神への道であった。 p40

ヴェーバーはこの見解を否定し、「今日では、世界の「意味」を科学的認識で見出す方法があると信じる人はいない。』とまで言い切っている。
 もう一つの学問の道として、「幸福への道」があるかもしれないが、これも無視してよい。

 これらすべてを否定した上での学問の意味はなんであるか?トルストイの答えは、簡潔である。つまり「無意味」である。しかし、無意味なら何か別の貢献はないのであろうか?例えば、「新しい問いを立てる」などである。

続く

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