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2013年7月14日 (日)

「職業としての学問」を読む(その9)

 次にヴェーバーの関係が深い、社会学、史学、経済学及び国家学とそれらの基礎付けを課題とする文化哲学について論じる。

 特に教師が学問的立場から政策を取り扱っている場合には、政策は教室で取り上げるべきではない。なぜなら、実戦的政策的な立場設定と、政治組織や政党の立場に対する学問的分析とは、全く別のことであるから。政治集会などで、自分の立場を明らかにするのは義務であり責任である。しかし講義の中で、学生に対して行えば濫用となる。

教室では、たとえば「民主主義」について語るばあい、まずその種々の形態をあげ、そのおのおのがそのはたらきにおいてどう違うかを分析し、また社会生活にとってそのおのおのがどのような影響を及ぼすかを確定し、ついで他の民主主義をとらない政治的秩序をこれらと比較し、このようにして聴講者たちが、民主主義について、各自その究極の自分の立場を決めるうえの拠りどころを発見しうるようにするのである。 p48p49

なお、この次にある一節は、尾高訳ではなく折原の「社会科学と社会政策にかかわる認識の『客観性』」のp320p321の注釈の訳文を引いておく。この部分の議論については、既に述べたのでここでは述べないが、尾高訳の誤訳に関しては、翻訳者としての誠実さを疑わざるを得ない。

まことの教師ならば、教壇の上から聴講者に向かってなんらかの立場を―あからさまにしろ暗示的にしろ―強いることのないように用心するであろう。『事実をして語らしめる』(すなわち、価値判断を価値判断としてフェアに明示するのではなく、抗いがたい既成事実に見せかけ、価値判断と事実判断との混同に誘い、既成事実への屈服を強いる)とすれば、それはもとより、もっとも不誠実なやり方である。

大学教師の義務は、学問的に示すことはできない。ただ、知的廉直と言うことだけが求められている。一方では事実の確定、すなわちもろもろの文化財の数学的あるいは論理的な関係や内部構造に関する事実の確定を行う。他方では、文化一般及び個々の文化的内容の価値や、文化共同社会や政治団体のなかで人は以下に行為すべきかの問題に答えること、この二つが異質であることをよく弁えることである。預言者や扇動家は教室の教壇に立つべき人ではない。預言者や扇動家は「街頭に出て、公衆に説け」と言う。なぜなら、そこでは批判の機会があるからである。

続く

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