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2013年7月 7日 (日)

「事実をして語らしめる」に関して私の考えを

 このブログのアクセス解析を見ると、ヴェーバーの「職業としての学問」の一節、『事実をして語らしめる』に関する記事のアクセスが多くなっている。
 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-3b44.html
 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post.html
 この議論について宗教的な側面については、先日追記しておいた。
 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-03c6.html

 ここでもう一歩、山本七平氏などの指摘を踏まえると、日本の文明の特質も絡んでいると思う。日本の文明は古くは中国、明治維新以後は欧米、そして戦後はアメリカと、それぞれお手本のある追いつき方の成長をしていた。
 そこで法律などは、外国から模範を貰ってくる、継受法の形態で、律令政治~明治憲法、現在の憲法と進んでいる。なお、固有法である『貞永式目』に始まる武家法は、全国民を対象にした法律ではないと言うので、少なくとも東大法学部の教育では、法律の歴史の本筋からは除外していると聞く。

 この状況で、「事実」についての議論をしてみよう。
 まず学校教育などの場を考えると、上述したように我が文明は『外に正解』がある。つまり、中国の正解か、アメリカの正解かが、『事実』なのである。例えば、仏典の理解について、議論が分かれた時、中国に答えを伺うと言うことが行われていた。
 このような姿勢で考えると、必ず正解があり、それが与えられるものであると言う発想になる。しかもその知識を保有する教師の圧倒的優位にもつながるので、教える側では便利な解釈である。

 さて、もう一方の建前と本音論から考えて見よう。日本の文化には、建前と本音の使い分けが、色々と発生している。この一つの理由は、無理やり継受法である律令をかぶせたが、現実の社会に適合できなくなり、解釈で逃げたり、武士階級用として別途法体系を生み出したりした運用にある。このような、建前としての法に対し、本音としての『事実』が存在すると言う発想が、和魂漢才などにもあり、貞永式目の制定などにもかかわっている。
 このような思想背景として、明恵上人の「あるべきようは」を捉えることもできる。

 このように考えると、日本の『事実信仰』は、一筋縄ではいかない。自分がどの立場で議論をしているのか、しっかり立ち位置を考えて、議論するのが、ヴェーバーの言う『価値自由』の実現となると思うのだが、これは異民族などの連合体の中で、自分達で『固有法』を作るために、悩み・真剣に議論した経験がないと、難しいのではと思う。ヨーロッパは、多数国での戦闘で明け暮れた地域である。このような、利害対立を通じて、自らが考えて法律による統治を生み出した。この経緯を踏まえて、ヴェーバーの意見を読み解くべきではないかと思う。

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