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2013年10月14日 (月)

森田療法について考えて見た

 先日から、一寸した縁で、日本発の神経症などの治療法として有名な、森田療法について、ネットの情報などを見ている。私の理解では、森田療法のキワードは、
 「あるがまま」
であった。つまり現状を、「あるがまま」に受け入れて、日常作業ができるようにしていく。この中には、色々なモノにとらわれずに、穏やかな生活というものも含まれている。

 しかし、もう一つ大切なキーワードがある、それは
 「煩悶即解脱」
である。
 本来の森田療法の、第一段階で「臥褥療法」を行う。つまり、何もしないでただひたすら横になっている。そうすると不安などが多く発生し、それを打ち消す考えと葛藤する。この煩悶が極に達するとき、苦悩が消え去ることがある。この心理状態を、「煩悶即解脱」と名付けている。
 この経験の後、軽作業、重作業と移るのである。
 これを見て思ったことは、このような「解脱」の瞬間を捕まえる、難しさである。本人が、見つけるようの資質があれば、それで救われるであろう。しかし、そのような感性を持つ人間は、多くはいないと思う。
 そこで思うのが、禅における指導である。特に臨済宗の公案禅では、常識では答えられないような矛盾した公案を与える。それを弟子が考え抜くが、普通の考えで出した答えでは、許してもらえない。例えば、
  「両手を打てば音がする、それを片手で出せ」
等の無理難題である。これに対し、弟子が悩みぬいたとき、ある心境になることがある。そうして持ち込んだ答えを、師匠が検証して合格とするのである。ただ、ここで大切なことは、形としての答えではなく、弟子の心境を見抜いての検証である。形だけの答えを持ってきた弟子でも、悟りそうな見込みがあれば、追い詰めていく。その中で、心の底から出た答え、これで本当の見性(=仏の知恵を知る)かどうかを見分けるのである。
 このような、心境を見抜き、誘導することができる力、これが本来の師たる者が持つものである。
 さて、このような力があれば、神経症患者などが、臥褥していても、なにか切り替わりそうな兆しを見出し、誘導することができると思う。また人間の精神は、色々な奇跡的な動きをするが、不安定なものである。そこで、良いモノを見出し、確認することで、本人もその行動を自分のモノとすることができる。
 このようなことを考えた時、本当の森田療法は、京都の東福寺にある三聖病院で行われているという言葉に、納得した。三聖病院の初代院長は、森田正馬の高弟ではあるが、臨済禅の僧侶であったと聞く。森田正馬自身は、禅の経験はないらしい。しかし、森田療法を実行するには、禅機を捉える力のある医師が、適切な指導を行うことで、多くの患者を治したのではと思う。

 こうして考えると、理論的にしっかりしていても、実行に移すには、またそれなりの力が必要と言うことがよく解る。

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