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2013年10月17日 (木)

出来なくされた人間について

 昨日は、できないという話について、少し議論した。これを考えた発端は、日経BP社のIT関連のプロジェクト管理に関する、感受性の議論からであった。私は、昔はソフトウエアの仕事をしていたので、この問題に関しては色々と言いたいことがある。
 まず、昨日は『必要性が解らない』と言う段階があると書いた。しかし、プログラマーのレベルでは、
   「外部に対して目を閉ざす」
ことを要請されることも、一つ指摘しておく。つまり、要求仕様に記述されたことだけに集中し、厳密に検討し実現する。かぎられた世界の中に集中して入る。外のことに気を配ってはいけない。仕様書の文書だけに従う。このような特性を必要とする。このような集中力により、数千~数万行のプログラムでも、ミスのなく実現するのである。
 私自身の体験で思うが、このような行動を積み重ねていくと、文書の世界が全てとなり、外に気を回せなくなる。「後天性の高機能性発達障害」と言う状況になってしまう。

 さて、このようなプログラマーが、仕様検討を行うSEになると、急に景色が変わってくる。お客様の意向や、使用状況など曖昧なものを検討しないといけない。実はこの時に、世の中には曖昧なものもあるのだ、そこで生きていくのが人間であると、再度調整しないといけない。これが切り換えられないと、SEの壁を越えることができなくなる。

 同じ工学出身者でも、機械工学などは、全体像を描くことが比較的上手である。また理論解析だけでないというものを、学生時代から教えられている者も多い。従ってこの壁を乗り越えることが比較的容易である。しかし情報系や弱電系の学生は、机上検討即動く製品と言う発想で、この壁を乗り越えるのに失敗する例も少なくない。

 私の経験では、本当にこの壁を越えるためには、科学哲学の理解が必要である。そして、物理学的世界観の限界を知り、社会科学の方法論を知る。また人文科学の人間の心への寄り添いまで知るべきだと思う。

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