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2014年1月22日 (水)

小論文について

 大学入試や就職試験において、小論文を課す事例が少なくない。
 しかし、小論文レベルに達していない事例が、多く出ているのも事実である。例えば、事実と意見、意見と感想等の、主要な区別ができていないものが少なくない。また、原因結果の因果関係も弱い。小論文では、独創的なモノが必要と言われるが、その前の必要条件としての論理性が、達成されていないのである。小論文を書く人は、この段階をまず解決してほしい。
 しかし考えて見れば、日本の学校教育は、このような訓練を、上手く行っているとは言い難い。この原因を考えて見ると、日本の教育は、交流分析でいう「親―子」型の教育である。つまり、
   「先生の言うことを無条件で受け入れる」
教育である。ここで、もし論理的にしっかり考えると、教科書に不満が出ることもある。そして論争が起これば、教師側が負けることもある。このようなことが起こさないのが、『日本的教育システム』である。アメリカ的教育では、小学校のレベルから、「事実と意見の分離」などの論理的思考を訓練している。さらに、高校のレベルでは、体育では「自分でルールを考える」等も訓練する。これを考えると「成人―成人」型の教育が成立している。
 さて、日本ではまだ「親―子」型教育を高校や大学まで持っていくのであろうか。一つの理由は、「成人―成人」の論争なら、教官側が負ける可能性があるからである。嘉納治五郎が講道館柔道を起こしたとき、乱取を大幅に取り入れた。これは、教える側が負ける可能性を認めたものである。そのリスクに対して、嘉納治五郎はしっかりした論理体系での説明を加えて、指導者の権威を守れるようにした。指導者側の説明力等に自信がない場合には、権威に頼り、「親―子」型の教育に行くことが多くなる。
 さて、もう一つの例は、新聞の投稿欄と社説の配置である。日本の新聞では、社説と投稿欄が、同じ紙面に配置されている。そして、投稿欄には、どちらかと言うと、論理的に弱かったり、勝手な感想的なモノも載せている。一方、社説には、(一応)論理的にしっかりした展開の文章を載せている。これも「親ー子」の図式で、
   「新聞社の人は、このようにえらいのだ!」
と見せつけている。
 こうして、「良い子」になる訓練を、ずっと押し付けられた立場から抜け出さないと、自分の主張を持った「小論文」は書けないと考える。

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