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2014年1月 4日 (土)

講道館柔道について

 オリンピックの強化の話などが出ると、昨年の柔道関連の不祥事続出に関して、いろいろ思い出してしまった。さて、明治の時代に嘉納治五郎が講道館を作ったときには、色々な改革がおこなわれている。これは、教育という観点からも、真剣に見直すべきものがあると思う。
 まず、嘉納治五郎の指導は、非常に合理的であった。重心がどこにあり、どう崩せばよいと言うことを、きちんと口で説明できるようにしていた。従来の指導の、体で覚えるではなく、理屈で理解させようとしたのである。
 そしてもう一つは、乱取形式の試合や稽古を多く入れたことである。これは今の人が見れば、当たり前に思うかもしれないが、当時としては
   「教える側が負ける危険を冒す」
と言う大きな冒険であった。実際、嘉納治五郎自身も、いわゆる四天王と呼ばれた、西郷四郎などと試合すれば、負けることもあったらしい。しかしそれでも、弟子たちを掌握していた。これは柔道に関する考え方が皆を引き付けたからである。
 さて、ここで現在の学校教育を、見てみよう。今の教育では、教科書に異論をはさむことは難しい。そこで、教師に対しても、無条件で従うと言うことになっている。これは、教育勅語の教育とあまり変わっていない。そのような教育を受けて、自立しろという方が無理がある。
 実際は、高校ぐらいから、自分の意見を言わせるようにして、意見を交える『乱取』がおこなわれるようにすべきではないかと思う。
 なお、実戦空手と称して、試合形式を重視した、K会のO師範も、晩年になって体が動かなくなって、弟子に負けそうになったら、型稽古を重視しだしたという話も伝わっている。
 確かに、型稽古の中で得るものは、大きなものがある。それを指導者が見抜くなら、型の指導は意味がある。しかし、自分ができなくなってから、型に逃げる。または、元々形式に守られていないと指導できない。これではさびしい話である。

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