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2014年6月30日 (月)

評論家的考え方

 昨日テレビで、久しぶりに大阪の橋下市長の顔を見た。相変わらず元気そうであった。彼の考え方には、色々な点で同感する面もあるが、従来社会では受け入れられないものがるだろうなと言う感じもする。
 さて、その中で2~3注目すべき発言があったので、少し考えて見たい。

維新の会の分党は多数決を使わずに決めた。
自民党は多数決を使わずに意志決定のできる知恵がある。
若い政党は、意思決定の仕組みができていないので、多数決にならざるを得ない。

大まかにまとめると、以上の趣旨であった。これは、興味深い指摘だと思う。確かに自民党と言うか、日本の伝統的な知恵には、多数決を回避しながら、上手く落としどころに持っていく技がある。若い政党には、これができていないので、勢い多数決に頼らざるを得なくなる。これは、民主主義の悪いところを、今までの自民党の長期政権が上手く逃げていた理由を示していると思う。
 ただし、現在の日本の状況は少し変わってきているように思う。従来の自民党的意思決定は、どうも実質の議論に欠けているように思う。反対意見をどこまで考慮し、どのように組み込んでいるか、一般市民の意見をどのように組み込んでいるか、その仮定が見えないのである。一方、橋下政治には、意思決定は強引に見えるかもしれないが、色々と説明がある。素案を出した後も、それに対して議論している過程を見えるようにしようと努めている。
 このように考えると、橋下政治というものは、もう少し伸ばしてもよいのではと思う。

 さて、橋下市長が攻撃する「評論家的考え方」というものについて、少し考えて見たい。一つの切り口は、「自分の問題として考える」これが、当事者意識である。一方、「外から客観的に考える」これが、評論家的意識である。
 ここで、もう一つの評論家的な言い方の、特徴を考えて見たい。それは、全体を見ずに、部分的な物だけで攻撃することが多い、ことである。悪意を持った切り出しは、論外であるがこれも少なくない。『ナチスの手口に学べ』などのと言う、追求は最たるものである。しかし、そこまで行かないでも、自分の専門的なことで、欠点が見つかれば、そこだけ追求するという言い方も少なくない。
 主体的に物事と取り組むと、どうしても総合的な観点で、妥協しながらモノづくりをすることが多くなる。部分では最適でないが、何とか許容範囲ならば、その他の点を考えて採用することもある。その点を部分だけを見て攻撃することは、『無責任な評論家』と反論されても仕方ないと思う。

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