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2014年6月21日 (土)

記号からの自由

 先般から、「一般意味論」について、見直している。「一般システム思考」も色々と参考になったが、「一般意味論」は、システム思考と関連して使うと、さらに有効な使い道があると思う。
 特に、一般意味論で言う『地図』は、現在の日本では『教科書』と言い換えると、多くのことが理解できるようになる。

 さて、今回議論してみたいのは、自分の思考における『記号』の役割である。複雑なシステムを扱う場合には、問題領域の多様さを、観察時にまとめて上手く記号化することが、一つの成功要因である。しかしながら、この記号化の段階を、意識しなくなってしまうと、現実の問題の複雑さを、忘れることになる。

 またもう一つの記号化の問題点は、記号の名称に色々と絡む連想事項を、無意識的に仮定することである。このことは、本当は幾何学の成り立ちを、きちんと理解することで対応できる。幾何学は、まず現実にある土地の形を、図形として記述しようとする動きからはじまる。その上で、道具としての定規とコンパスが出てくる。そして理論的に議論が進むように、線や点を、理想化していく。この段階で、ユークリッド幾何学が使えるようになってくる。

 しかしながら、ユークリッド幾何学では、定義がきちんとしているようで、実際は『線』『点』『三角形』などと言う言葉のイメージに、かなり依存している。この依存を除去するために、公理系をきちんと作り直したのが、ヒルベルトの幾何学である。

 数学の歴史を、現実の理解のしかたと言う形で理解する。こうして、「記号」との付き合い方を理解する。自分が使っている記号に、無意識的に前提としているものがある。これがうっかりすると偏見につながる。

 このような偏見は、完全に除去することは難しいと思う。しかしながら、そのような偏見があるということを意識する。これが、記号からの自由につながってくると思う。

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