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2014年9月 4日 (木)

日本社会は人材についてどう考えれているのか?

 昨日、NHK番組に刺激されて、日本企業の人材確保について書いた。その後、内閣改造のニュースや、STAP細胞の再現実験に関して読んでいると、この国の人財に関する考え方について、もう少し議論すべきことが見えてきた。
 まず内閣改造における、人財の活用を見てみよう。これは、本質的に、有能な候補の中から、適任者を選別する作業になる。確かに、この国の歴史には、「何でこのような大臣」と言う人罪が、出たこともある。例えば、田中大臣等・・・
 本質的には、大臣などは、元々有能な人財のプールの中から、機会を与えるための選別である。なお、今回の小渕経産相に関しては、育成と言う匂いも少しはする。このように、国家のキャリア官僚や、自民党の大臣候補のように、それなりの人財がバックにある場合は、選別しふるい落とす仕組みが大切であるとの発想もある。前の某大臣のように、「金目~~」などと言うような、不適切な人在は、ふるい落とすのが一つの人材戦略である。
 さて、企業の人材戦略は、これと同じでよいのだろうか?私は、状況を分けて、考えるべきだと思う。まず、先ほどのように豊富な人財プールがある場合には、選別をしっかりやるという仕組みでよいだろう。次に、プールを持っていないので、世間から選び調達するという発想がある。これは狩猟民族の発想と考えてもよい。ヘッドハンティングなどの発想である。またこれに対応して、自己の才能に運命をかけ、渡り歩く人財があることが、このような狩猟社会の成立を支えることになる。
 最後に、農耕民族的な発想では、育てるという発想がある。日本的経営の一面として、終身雇用で、しっかりOJTで育てるという方式があった。この方式では、社内文明に特化して、擦り合せて育てることが多くなる。確かに、モジュラー的にどこでも通用するという人材ではないかもしれないが、社内の隅々まで理解し、社員が共感を持って従えるような人財を育てるのは、このような内部育成のメリットである。
 このような、選別型・狩猟型・農耕型の育成に関して、メリットとデメリットを考える時が来ていると思う。特に、選別型の場合には、一度選別から外れた時、別のキャリアを選ぶのか、そのような生かし方も考える時が来ていると思う。昔の護送船団方式なら、先頭の船から後ろの船に乗り換えることができた。そして、そこでもそこそこ役立つ仕組みがあった。しかし現在は、そのような甘い考えは許されない。多様な生き方を、支える仕組みはここにも必要ではないかと思う。
 もう一つ、選別方式に関して書いておきたいことがある。それは、大学を中心とする学界の構造である。特に基礎研究の世界に関して、言っておきたいことがある。今回の小保方攻撃に関して、一部の学者の言い分は
 「一度不正をした人間は追放すべきである」
である。この発想は、実は上記の選別方式の人材活用文化の、一つの発想である。つまり、減点主義で、一つの欠点があれば、それで追い払ってしまう発想である。
 本当にこの発想でよいのだろうか。このような、追放発想が「野良博士」を多く生み出しているという現状も、一度考え直すべきではないかと思う。

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コメント

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http://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/bunka/koyou_hearing/dai1/gijiyousi.pdf
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/bunka/koyou_hearing/dai1/siryou2.pdf
(http://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/bunka/koyou_hearing/dai1/siryou.html)
http://anond.hatelabo.jp/20130826223408
トップダウン型を選択するのか、それともボトムアップ型でいくのかかと思われますし、
選別型を実施するとしても、狩猟型(ジョブ型)・農耕型(メンバーシップ型)、どちらを実施するのか、恐らくは、理研の場合、ジョブ型を選択して、メンバーシップ型つまりフォローを疎か(昔ながらのやり方とは違い、ジョブ型に合ったと表現すべきかもしれませんが…)にしたのかと思います。

Inoue様
貴重なご指摘ありがとうございます。
この話は、大きな問題を含んでいるので、
広げすぎることは避けたいのですが、初期目標は失敗でも
別の成果をくみ取るなどの、寛容さは欲しいと思っています。
ジョブ型、メンバーシップ型の議論は、大きすぎるのですが
その根底にある、経験知と理論知の問題は、もう少し触れたいと思っています。
何時もありがとうございます。

本日更新のblogも拝読しました。
広げすぎないよう注意しつつですが、

(長谷川主査) それに関連して、例えば研究者の場合、研究者として採用され、本来であれば一生研究者であるけれども、研究者としてのアウトプットを、要求される最低限のレベルまで出せないときに、例えば、欧米でよくやるようなプロフェッションを置いて、6か月以内にこういうものを出してくださいなどといったことを何回かやって、それも達成できない場合に解雇することにすれば、これは裁判になっても受け入れられる可能性がかなり高いのだろうか。
(濱口総括研究員) それは個別ケース。おそらく、雇用契約そのものがどれくらいの専門性を要求するものか、どれくらいのアウトプットを出すことを合意していたかということの判断になるだろう。

というように、アウトプットの前提となる基準が、基礎科学研究者と応用科学研究者とで、ズレがあるんでしょうね、恐らくは。

Inoue様
いつもご指摘ありがとうございます。
確かに研究者の雇用条件や契約条件は、一般の雇用とは一線を引くべきです。
但しそれだけの力があるか?
文藝春秋の記事を見れば、小保方さんは特許の権利を理解せずに押印したようですね。このレベルの契約をどう考えるか?
博士の保護者同伴は笑えないですが、契約の話ではこのレベルでしょう。
ご指摘の基礎研究としての契約条件は確かに論点としてはありますね。ありがとうございます。

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