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2015年2月 8日 (日)

日本仏教的な教え方について

 このブログで何回も取り上げた、部分的によいものを持っているが、総合的に見れば欠点がある場合の育成について、わが国の宗教的な観点から、少し議論してみたい。
 完全なモノ以外は受け付けず、しかも拒否だけされる。このような育成法として、まず思いつくのは、禅宗の指導方法である。私は、禅の経験はないが、臨済宗の公案の対処法を見ても、自分の見解を持って師に示す。しかし、師は何も言わず、唯鈴を鳴らし退席を促す。このような指導の繰り返しである。確かに、悟りというものは、自分でつかむものであり、人に教えられるものではない。これはある程度納得のいくものである。それでも、白隠禅師に墓の周りにある、修行途中で死んだ人たちの墓ともいえないような土饅頭の示すものは小さくない。
 一方、禅宗のやり方は、余りにも極端すぎると言うことで、天台宗の止観行について、読んでみた。天台宗の主張では、達磨禅は一気に本質を身に着けようとする、一方天台の止観行は、それを細かい尺度に割り、暴走しないようにしている、と言うことである。此れなら、もう少しわかりやすいと思い、摩訶止観を読んでみた。しかしながら、こちらも非常に難解である。ただ何となく解ることは、お釈迦様の悟りの世界を、学び自分のものとするためには、色々なお経の教絵が、入り組んだ構造になっており、相互の組み合わせを密にしないと、解らないと言うことであった。
 そして、天台の止観でも、円頓止観、漸頓止観そして不定止観の三種がある。その内、全てが解る円頓止観が一番すぐれている。このようになっている。漸頓止観は、部分的な進め方で、師匠などから与えられた範囲での悟り方と言う感じであり、不定止観は部分的に解っても、全体が理解できていないので、不安定なものとされている。
 この発想は、結局完全でないものの否定である。さらに大乗仏教の特性として、完全な佛の智慧まで至らない、声聞・縁覚等を強く否定する。悟りの一歩手前で厳しく否定するのである。このような発想は、天才を見出すにはよいかもしれないが、多くの人を育てるのには不適当な感じがする。
 日本人の思想には、仏教が影響している部分が少なくない。この点をもう少し明確にすべきではないかと思う。

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