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2015年2月21日 (土)

解ると言うことについて

 昨日は、全体像について書いた。そこで少し触れた、天台摩訶止観の3種の止観について、もう少し書いてみたい。私は、摩訶止観については、岩波文庫の「摩訶止観:関口真大訳』を読んでいるが、なかなか分かりにくい。この理由を考えて見ると、文章による説明の限界というものを感じる。多面的な要因があるものを、文章で書き表すと、どうしても一面的な見方になる。従って、一見すると矛盾する書き方が出てくる。このような世界ではないかと思う。
 さて、止観の3種類を書いたが、これはどれも頓と言う字が示すように、「突然悟る」と言う意味合いがある。つまり、
  「解ったぞ!」
と言う体験を示している。これは文書の記述を理解することとは、まったく別の次元である。仏教の言葉で言えば、「依止」がその状況を、比較的よく示しているように思う。色々な物が因縁などでつながっている。この関係が一揃い出そろう。依存関係の拡大が、止まり収束した関係と理化したらよい。このような手段で納得する。これは、文章を読むことだけでは、得ることが難しい世界である。
 さて、摩訶止観の示す、3種の止観の内、円頓止観は全世界を全て自らの内にする、壮大なものである。これは、仏の最高の如来の世界であろう。これがわれわれでもできるというのが大乗仏教である。交流分析で言えば、親の立場である。一方、漸頓止観は、とりあえず限られた範囲での納得である。これは、子供が与えられた世界で納得するという感じである。日本の教科書は、この発想で書かれているように思う。確かに、このような形で、限られた世界で納得すれば、通常は平穏に暮らせる。しかし、現実の力が牙をむくと、『想定外』で動けなくなる。
 一方、不定止観は、限られた知識で、ある部分を切り開いた納得である。西洋文明は、これを持ち寄って何とか、物を作ってきたように思う。この部分の擦り合せる苦労は、われわれ日本人は追いかけ文明開化の世界では、あまり体験せずに済んだ。しかし、今後はこのような、部分的な悟りをつなげて、全体に広げる苦労が必要ではないかと思う。

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