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2015年3月 5日 (木)

想像力の欠如かまたは制限について

 川崎市の中学1年生の殺害事件に関して、一つ気になることがある。週刊誌などに一部報じられているが、この加害者に対して、別のグループの人間が、今回の被害者をいじめないように、家に押しかけて注意した。その時、今回の加害者の家族が、警察を呼んだと言う一件である。この時、警察側が状況をきちんと調べておけば、今回の加害者もその時点で補導されて、事件を起こせなくできたのではないかと思う。
 この時出動した警官は、その時点で起こっていることだけに目を向け、今回の加害者は、その時点での被害者としてだけ見たのであろう。確かに起こっている、事実だけをしっかり見ることは大事ダル。見込み捜査での誤認逮捕などは、あってはならない。しかし、元からある問題に目をそむけて、大きな事件を引き起こすまで何もしないと言うことも、まともな人間が平和に暮らす権利を奪うことになる。
 この時出動した警察官は、少しは訴えられた方の言い分も聞き、その時点で被害者と称している少年の危険性を、察知する力がなかったのかと思う。このような想像力の低下は、学校の先生にも起こっているという話を聞いた。
 つまり、成績優秀で教員採用試験を突破した先生には、恵まれた生活を続けていたため、貧窮生活と言うことに関して、想像できない。例えば、子供がいつも忘れ物をする。実は、その子は買ってもらえないので、それを持っていない。食事も満足に食べていないので、いつもぐったりしている。このような子供の状況について、原因である貧窮生活が想像できない教師がいるらしい。
 このような想像力の低下は、高文脈依存の我が国のコミュニケーションでは、大きな障害になると思う。欧米のような文脈依存が少なく、何でも主張すべきと言う世界ではない。思いやり、解り合いが前提のわが国で、思いやれない人間が増えることの怖さを考えないといけない。

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