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2015年5月20日 (水)

誰かを犠牲者にして追求することで自らが逃れる

 先日から、オウム真理教の事件について、一寸関連ブログなどを見ている。
 そこで、麻原彰晃の子供がいじめにあった話が出ていた。
  http://ameblo.jp/matsumoto-umi/entry-12022108638.html
 この話を見て、どこかで見た光景だなと思いだした。それは、第2次大戦後の学校で、東條英機の孫が、いじめに遭った光景である。

 さて、ここで大切なことは、このいじめに関する学校側の対応である。どちらも、無視と言うか、学校側がいじめを正当化していた感じもする。ここでもう一歩踏み込むと、学校教師の体質と言うものが見えてくる。
 止まり、自分の行動を正当化し、誰かを叱るという体質である。麻原の子供に対しては、いじめ放置と言う責任を、親の犯罪と言うことで正当化しようとした。この図式は比較的わかりやすい。
 一方、東條英機の孫の問題は、もっと手が込んでいる。この時代の教師の大部分は、戦中時代も教師であった。そして、お国のためにと、教え子を戦場に送り出し、父兄には戦争に協力するように、供出品を出せと強要していた。
 彼ら(彼女ら)が、戦後は口を拭って、平和な国でなければならない。マッカーサー万歳と叫んでいたのである。

 このような、自分の罪悪感を、隠すために、教え子をスケープゴートにしたり、追求する側に回る。このような教師に、道徳教育など任せることができるのだろうか。

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