ご縁のあった人たち

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2015年6月25日 (木)

周辺への配慮について

 今話題になっている、「絶歌」に関連して、山本七平が、かなり本質を突く話を書いていたことを想い出した。

「常識」の落とし穴 (文春文庫)

 この本の、Ⅳ「常識」の落とし穴 こわい話に、小学校の校長経験者が、
  「子供は純真です」
  ~一部略
  「だから恐ろしい」
と言い出して、リラダンの『残酷物語』を引用して、男の子が女の子を殺す話が、いつ学校で起こるかひやひやしていたという話がある。

 ただし、この話には一つの解決のヒントがある。同書のp202~p203から長くなるが引用する。

「子供が純心だというのは現在の興味に没入してそれだけが世界だからさ。大人はすぐ周囲のことを考える。そして将来のことを計算する。簡単にいえばそれを行った場合、周囲が自分をどのように扱い、それが将来どう影響するかを反射的に把握するコーチを持っている」
「コーチって」
「狡知さ。狡猾な知恵だよ。しかし計算高い狡知に少々自らうんざりしているから、純心な子供を見るとほっとする。しかし今回のような事件はその子供に狡知があれば、いわば周囲と将来を把握できる能力があれば、起こらなかっただろう。だが大人は自らの狡知にうんざりしているからその教育をしたがらずにきれいごとをいう。これは左右ともだ。これも、こわい話だな」

確かに、周辺に配慮することは、功利的な狡猾さと言う面もあるだろう。しかし思いやりと言う良い面もある。さらに言えば、総合的思考力と言うべき側面がある。システム的に考える、これは現在の社会では必須の能力である。
 これを単に狡猾な知恵と、追いやってしまったのは誰だろう。一つの仮説は、総合的思考の難しさで、学校教育などの腰が引けた側面がある。もっと踏み込めば、仏教でも十如是に示す多面的な見方の内、因果や縁と報の関係などは、人間でなく仏でないと理解できないものとしている。
 自分の手に入れることが難しいものを、狡知として避けるのではなく、仏の智慧として、遍くものの苦しみや喜びが自分のモノとなる境地を教える人が出てこないだろうか。交流分析で考えても、親の立場は全体像を持つ立場である。このような総合的視点が欠けているのが、学校社会過剰適応人間ではないかと思う。

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