ご縁のあった人たち

無料ブログはココログ

« 東芝と言う会社の罪 | トップページ | 監査と言う役割は? »

2015年7月23日 (木)

「善人」の救いについて

 近頃、大乗仏教の書物を色々と呼んでいると、少しは解ってきたことがある。大乗仏教が、小乗仏教に対立するものであるという、当たり前のこともよく理解できていなかった。(なお小乗仏教と言う言葉は、言葉狩りにあいそうだが、当時の思想を伝えるため、あえてこの言葉を使う)
 つまり、出家して自らの救済を図る、声聞・縁覚の境地は、それなりの高みであるが故に、それ以上に行かず安住する可能性が高い。本当の仏の世界(大乗の世界)に行くには、途中での成功(小乗)を捨てて、もう一度やりなさないといけない。そのようなことを教えるために、法華経ではあれほどくどく書いている。

 さて、ここで親鸞の『悪人正機』について、もう少し考えてみた。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E4%BA%BA%E6%AD%A3%E6%A9%9F

 善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。

 ここで言う、『善人』とは、自分が善行をしたと考えている人間である。一方、『悪人』とは、自分のしたことに反省している人間である。つまり、反省のない『善人』より、反省して、自分が『悪人』と認めている人間の方が救われるという、当たり前のことが前提にある。親鸞の教えの鋭いところは、阿弥陀如来の救いは完全であり、反省のない『善人』ですら救われるということである。逆に教えとしては、自分が『悪人』であると、速く気付いて、救われるようにと言う想いもある。

 しかし、ここで大きな疑問がある。自分が、悪行をしても、それを他人のせいとして、本質的な反省をしない人間は、救われるのだろうか?因果応報で、悪事を冒した人間は地獄に落ちる。そこできちんと修行した人間は、次は生まれ変わって、善い所に行ける。しかし、地獄に落ちても、自分のせいではないという人は、本当の修行はできるのだろうか?永遠に、不平を言いながら、地獄をさまようのではないか?

 交流分析で言う、「子供」の思考では、何事も「親」の責任にする。このような者に救いがあるのだろうか?日本人は「13歳の子供」だから、罪に問えないと、マッカーサーは言った。しかし、自分の罪に向き合わなかった、軍国主義のせいにした我が国の救いはどこにあるのだろう。

 

« 東芝と言う会社の罪 | トップページ | 監査と言う役割は? »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「善人」の救いについて:

« 東芝と言う会社の罪 | トップページ | 監査と言う役割は? »