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2015年8月25日 (火)

「ハイ・タレント」側の悩み

 先般から書いている、社会のブレークスルーを、「ハイ・タレント=(高能力者)」に託そうという動きに関連して、そのように期待された側の悩みについて、考えてみた。
 1960年代あたりでよく言われた言葉に、
  「学生は、マルクスか禅のどちらかにかぶれる」
と言う言葉がある。この言葉の意味を、「ハイ・タレント」依存と言う社会環境で考えてみた。当時の大学生は、少なくとも義務教育時代は、
  「人間は平等」
  「学校の成績だけが全てではない」
と言う建前で、教育されていた。それが、大学に入ると、
  「将来を担う人材」
等と言う、「ハイ・タレント」への期待を受けることになる。このギャップに、良心的な学生ほど悩んだ。

 さて、ここで「マルクスか禅」と言うことを、もう少し考えてみよう。まず、マスクス主義には、進化論的な発想が根底にある。つまり社会制度の進化と言う考えである。この考えで行けば、マルクス主義を理解し実行する人間は、資本主義の社畜等より『進化した存在』であるから、指導的立場に立つのは当然と言う発想になる。このような、指導者の条件を、自分が満たしていると信じる根拠を得ることで、自信を持って生きていくことができた。

 一方、禅に関しては、もう少しややこしいものがある。私自身も、「禅」については、少しばかりかぶれたほうなので、自らの体験で言えるが、当時の世間での禅に対する理解は、大乗仏教の在り方と言う、しっかりした土台の上に立ったものではなか句、どちらかと言うと『悟り』と言う、神秘体験を求めるものであった。このような『悟り』を啓くことで、自分が他人と違うという納得を得る。このような目的での、禅かぶれが多かったように思う。

 このように、「ハイ・タレント」への期待に対し、「ハイ・タレント」側の不安を解消するものが弱く、「マルクスか禅」に救いを求めたものが多くいたのだと思う。
 しかも、禅に関しても、天台の止観業が前に出ていれば、もう少し安全だったと思うが、臨済などが表に出たため、魔境に入った人間も少なからずいたと思う。ここまでくれば、カルト宗教にはまる人間が出るのも当然の結末である。

 このようにならないために、リベラルアーツ、特に哲学的な土台をきちんとすべきであり、その上で実用に足る方法論を教えるべきではないかと思う。

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