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2015年8月24日 (月)

「ハイ・タレント」依存について

 昨日書いた、1960年代にあった、「ハイ・タレント」依存の課題突破と言う話を、日米の思考方法の比較で考えてみたい。まず押さえておきたいことは、欧米では、奴隷制度などの支配の文明的蓄積があると言うことである。つまり、支配者は思考する、被支配者は無条件で従えと言う話である。
 もう一つ、上記と絡むが、進化論と言う話がある。つまり、人間に進化してきたという話をさらに展開して、人間の中でも進化した者とそうでないものがいるという発想である。嫌悪感を感じる話であるが、奴隷制度時代のアメリカでは、黒人女性に白人の子供を産ませることを、『品種改良』と考えて奨励していた。このような能力差を認める発想が根底にあるので、優れた人間の支配、現状の困難の打開を、有能な人財に依存するのは自然なことであった。

 一方、日本では、進化論より輪廻転生の発想が強く、「皆に仏性がある」と言う感じの平等思想が根底にある。更に、明治維新では、長州の奇兵隊等の流れもあり、社会の階層化を打ち砕く平等思想が根底にあった。
 さて、ここでアメリカの、ハイ・タレント依存の経営方針が、わが国に侵入してきたら、どのようなことになるだろう。平等の建前なのに、リーダーに成れと言われる。このような立場に立った人たちの心のよりどころはどこにあるだろう。
 確かに明治維新以後、戦後の一時期までは、欧米の先進技術を、導入するという立場で、優位を示すことができた。極端に言えば、英語の文献を読む力があれば、それが競争優位につながったのである。また、物理学の知識、特に微分方程式等の数学の言語が使える、これも差別要因となった。
 しかし、このような情報格差は、日米のキャッチアップが進み、さらに情報公開が進むと、差別要因でなくなってくる。

 この解決として、本当の差別要因は、「思考の方法論」であると私は考えている。
 総合職の給与は、確かにパートタイムの時給よりはるかに高い。それを合理化するためには、パートタイマーの仕事を創出するなり、合理化を考えるなり、何らかの高度の仕事をする必要がある。

 これを示せないために、メンタル面を病むのが現状ではないかと思う。

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