ご縁のあった人たち

無料ブログはココログ

« 覇権国にならなかった利点 | トップページ | 細部の検討は学んでも総合的な視点での調和は学べない »

2015年10月12日 (月)

結論先行の話し方の弊害

 日本人の議論では、重要な結論が最後に出てくる。そのために、議論が成立しなくなる。これは、欧米人などが指摘する問題点である。これに対して、日本語の文脈依存や、共感依存の特徴を考えて、最初に結論を言わないことの智慧について考えてみた。
 一般に、日本社会で、結論先行で議論を始めると、賛成反対の短絡的な話になり、議論がかみ合わなくなることが多い。自分の意見に賛成する人の話だけ聞き、反対者の意見には耳を貸そうとしない人が少なくない。しかもこのような場合には、極端な方向に意見が流れることが多くなる。例えば、安保法制の議論で出てきた、「戦争法案反対」などの言い方である。ISのテロの時も、多くの人が意見を言うとき、頭に
 「私はこのようなテロは断固として許すべきではない」
と言う言葉をつけていた。こうしないと聞いてもらえないと言うことが、本音だろう。しかし、このような言い方をしていくと、どんどん過激な方向に話が進んでいくことが多い。オウム真理教事件でも和歌山カレー事件でも、『許すことができない』人たちの間で、話が厳罰化に向かったと、今にしてみると思う面もある。例えば、和歌山カレー事件の林死刑囚も、本当に「殺人」なのか、「激情による傷害致死」なのか、冷静に考えてみると疑わしい面もある。殺意の計画性まで、あの時の証拠状況では、立証できなかったのではないか?
 このように考えると、色々な意見を交えるために、最初に前提状況を述べながら、結論を最後に持ってくる、説得法と言うのも一つの考え方ではないかと思う。
 特に、日本語では高文脈依存であり、共通感覚を重視している。もう一つ言えば
  「XXは~~である」
と言う、直接的な言い方が多い。これは、全人格に任せるようなものである。一方欧米では
  「XXはYYの性質がある」
  「YYの性質があれば~~する」
  「ゆえにXXは~~する」
と言う三段論法がよく使われている。これは、特定の状況での行動と限定したものになる。

 このような言語や思考法の違いを考えると、日本的な議論法もよいのではないかと思う。特に、SNSでの短い表現の言い切りは、
  「XXは~~である」
と決めつけ危険な方向に人々を誘導するように思う。

« 覇権国にならなかった利点 | トップページ | 細部の検討は学んでも総合的な視点での調和は学べない »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 結論先行の話し方の弊害:

« 覇権国にならなかった利点 | トップページ | 細部の検討は学んでも総合的な視点での調和は学べない »