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2015年10月19日 (月)

甘えがない世界の怖さ

 先日、あるところで就活の相談に乗っていた時、相手の子が
  「あまりにも優等生過ぎて自らを否定している」
状況にあると感じた。この子の話を聞く前には、
  「就活に於いては、自分に厳しく、絶対評価でなければならない。」
つまり、
  「周りを見れば、このようなものです。」
という言い方は通用しないと、厳しく当たっていた。しかし、この子は絶対評価で
  「自分の能力のなさ」
を痛感し、ストレス性の病気にもなっていた。私は、このような状況を見て、
  「周りとの比較で自信を持つ」
こともよいのではと思い直した。

 これをもう少し、一般化して考えてみた。このような姿勢を、前の私なら
  「甘えるな」
と言ったと思う。しかし、人間が生きていくと言うことは、人と人との関係であり、その中での適切な「甘え」はあってもよいのではないかと思う。但し、この適切と言うことが、曲者である。まだ整理できていないが、いわゆる「たかり」に相当するような依存行動と、受け入れられるべき「甘え」の違いを、明らかにすることから議論すべきではないかと思う。

 私の考えでは、「甘え」には、相互の愛情の流れ、感謝と満足の流れがある。「たかり」には、自己正当化の発言はあっても、相手に対する感謝や満足の感情がないように思う。これを、交流分析で書けば、甘えの交流は、NP(優しい親)-NC(自然な子供)の関係である。しかもこれには表裏はない。
 一方、たかりの交流は複雑である。一見AーA(成人同士)の論理的な交流に見える。しかし、裏側ではCP(支配的親)-AC(従順な子)と言う支配関係が見えている。つまり、相手に何かしてもらうとき、『正当な要求』として、理屈付けている。しかし、実体は、要求にこたえることで、支配者の優越感を満たしたり、言うことを聞かせようとする目論見が隠れている。

 甘えの構造には、建前と本音の分離がないし、お互いの愛情の交流がある。そして、相互の満足もある。このような面を、もう一度見直してもよいのではと思った。

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