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2015年10月27日 (火)

反省と言うことについて

 自分の考えと言う話を少し拡げて、感情的要素を考えてみた。前に、「絶歌」について色々と書いたとき、
 刑務官などの求める動作に反応する
と言う行動で、改善の兆しと判定されたという話が気になっていた。
 先日、科学哲学の議論を読み直して、これはサールが提唱した『中国語の部屋』の状況と同じではないかと気がついた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E3%81%AE%E9%83%A8%E5%B1%8B
 つまり、言葉に対する与えられた反応をきちんと行う、これだけで理解したと言えるのだろうか、これがサールの提唱した問題である。更に、『反省』という感情的な要素が入った場合に、単純な言葉の反応だけでよいのだろうか?

 これをもう一歩踏み込めば、今まで書いてきた、自分の考えをもたずに、教科書通りの『正解』を書けばよい成績となる、今の学校システムへの過剰適応者も、同じような『中国語の部屋』状況ではないか?

 これは、人間がコンピュータ化したという話になる。この話はもう少し考えてみたい。

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