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2015年11月30日 (月)

均一的な学校生活の体験の意味するもの

 昔タレント弁護士時代の大阪の橋下市長がある番組で
  「子供は、教学の公立校に通わせる。
   均質な私学の卒業生は、優秀でもひ弱である。
   子供の時に色々な人がいることを知っておくことは大切だ。」
と言っていた。
 この話について、何となく納得していたが、あるHPの記事を見て、かなり見えて来たものがあるので書いておきたい。
 http://iinee-news.com/post-3755/
 この記事では、シングルファーザーが、娘に今までしてやれなかったことに気づき、それを補うために好きなものを買い揃えて喜ばすと言うハッピーエンドで終わっている。推測であるが、この子の通っている学校は、かなり生活水準がそろっているように思う。
 確かに小学校の時代に、同級生のしていることができずに、傷つくことは多い。その意味では、この子が幸せな感じを味わうことに異論はない。

 しかし、私の子供時代を考えてみた。自分の家も貧乏生活であり、他人と同じことはできないと、諦めた生活であった。そして、クラスに何人かはとても貧しい子がいて、その子たちに皆は少しは気を使っていた。上に書いているような、贅沢が許された子も、周りに気を使って、密かに喜んでいたように思う。
 これが、橋下維新の発想の一つの原点ではないかと思う。自分より恵まれた子もいる、そして自分より恵まれない子もいる。その中で、お互いが気を使い合って生きている。この気配りが、今は少し無くなっているように思う。特に一部の既得権貴族などの発言にそのようなモノを感じる。単に1回の試験で合格した、大企業の社員であるという特権を振りかざす。これらの人間には、自分が幸運で今の地位を得たという反省もなければ、その地位に合う働きをして、皆のために何ができるか考える、このような発想が欠けている人がいるように思う。

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