ご縁のあった人たち

無料ブログはココログ

« 本質を見ないで議論するこわさ | トップページ | 教科書的な思考の弊害の実例 »

2015年11月21日 (土)

本質を見ないで議論するこわさ(教科書社会の弊害)

 昨日書いた、本質を見ないで議論するこわさの真の原因は、日本的教科書過剰適応社会があると思う。理由は、教科書の権威を疑わずに受け入れる訓練を、義務教育だけでなく高等学校から大学の一部まで受け続けているからである。教科書に書いてあることを、そのまま受け入れる姿勢は、問題を根本原理にまで遡る体力・気力と方法論を身につけることに向かせない。
 学校の教科書通り、教師の採点に従うことだけを考えると、本質に関して議論する癖もつかなくなる。これは、正解のある自然科学などならまだ弊害も少ないが、人文系や社会系の個々人の感性や、議論の前提に依存する分野では、大きな弊害があると思う。特に、国語などの問題で、「~~で感動せよ」と言われても、自分に体験がない場合には、本当に感動できない物もあるだろう。
 日本社会では、このような感動を均一化するために、昔は歌舞伎等の芝居の場面を共有化し、皆に感動の均質化を図るようにしていた。しかし、この仕組みも理解せずに、教科書の指導書通りに、感動の押しつけを行う教師が少なくない。そして、教師と衝突を避ける『良い子』は、自分の考えでなく、『正解』に合わせるようになっていく。
 これが、本質を考えなくする、一つの仕組みではないかと思う。
 また、もう一つの副産物として、裏情報を求めるようになる。教科書的な正解は、教師の指導書に書いてある。それを知れば、簡単に正解を得ることができる。陰謀論などの情報に振り回される人は、このような『裏情報の力』と言う幻想に、振り回されている人が少なくないと思う。
 せめて大学ぐらいでは、自力で考える力をつけるように訓練してほしいものである。

« 本質を見ないで議論するこわさ | トップページ | 教科書的な思考の弊害の実例 »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 本質を見ないで議論するこわさ(教科書社会の弊害):

« 本質を見ないで議論するこわさ | トップページ | 教科書的な思考の弊害の実例 »