ご縁のあった人たち

無料ブログはココログ

« 日本教育のひずみの原因としての平等論 | トップページ | 使える知識の鍛え方 »

2016年1月13日 (水)

知っていると言うことの価値

 先日から書いている、「教育に関して、日本では知識付与に偏り過ぎている」という議論をもう少し掘り下げてみたい。
 日本の教育が知識付与に偏った一つの原因は、明治維新後の欧米との知識格差が原因の一つだと思う。国際的な金銀の交換レートと、国内のレートが違う、この情報だけでどれだけ多くの商人が損をしただろう。このような経験から、とにかく西洋文明に負けない知識のレベルにもっていくことを目標とした。
 ただし、この裏側に実現上の問題もあったと思う。学校制度を普及させるために、大量の教員を早期育成しないといけない。そのためには、教科書の知識をそのまま教えるという手法が使いやすかったと思う。教える立場では、教わる側の自由な発想に対処するには、色々な知識スキルが必要であり、そのような適性のある教員確保は難しかった。もっと言えば、明治維新後直後の教育体制には、政府側についた士族たちの失業対策的要素もある。このような、誰でも教育できるという手段として、教科書的な知識付与が広がったと思う。
 さて、教育に関しては、知識付与の他にスキル鍛錬という面がある。日本には、武道の習得という形で、技を身に着ける仕組みはできていた。これは、体育などではある程度伝わっている。しかし、今度は、技の教育と関連する、知識情報の整理が巧くできない面がある。
 八光流という、武術(?)の流派がある。この流派は、情報付与と技の体得をきちんと分別した、日本の武道では珍しい流派である。確かに、人体の急所の位置とそれぞれの攻め方などは、情報として知っているのといないのでは、大きな違いが出る。これは、極端に言えば通信教育で教えることもできる。このような知識を持った、即製師範を多く生み出したのが、八光流の特徴である。ただし、そのような急所への攻撃を、実際の技として使えるようにするためには、多くの繰り返し訓練を行い自分の体が自動的に動くようにしないといけない。八光流の武術家という人は、この訓練を宗家からきちんと受けている。
 しかし、八光流以外の多くの武術では、まず体で覚えろという発想である。繰り返し訓練をして、体が動くようにする。その中で理論的なものを自分で見つけるという発想である。明治の講道館柔道が普及した一つの利点は、このような状況で、重心の位置と崩しということによる理論的説明をしたことがある。
 確かに、体が動かないと、知識があっても邪魔になる場合もある。そのためには、まず形にはまった体の動きができるようにする。その上で知識による整理をする。このような方法にも一理あると思う。
 しかし、知識がなければ、変な方向に向かう可能性もある。また可能性を認識できないこともある。知識先行と、訓練先行、どちらが良いのか、難しい問題である。
 これに対して、武術の世界では、一つの答えがあると思う。例えば、示現流の型には、初心者が習う型の中に、極意の技が潜んでいると聞く。その解釈を、力がつかない間は教えない。これは一つの解決策だと思う。そこまで考え総合的な視点で型を作る。これが教育の一つの理想ではないかと思う。

« 日本教育のひずみの原因としての平等論 | トップページ | 使える知識の鍛え方 »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 知っていると言うことの価値:

« 日本教育のひずみの原因としての平等論 | トップページ | 使える知識の鍛え方 »