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2016年3月15日 (火)

中をとるの真意は

 何か、新しい政党名が、決まったらしい。名は体を表すというが、どう見ても寄せ集めの感じがする名前である。民主と維新という言葉が、適当に感じられるように、文字をばらまいた。「民主」の文字を、フルスペックで残さない形にした。このような、「中をとる」妥協案が、この国には多いように思う。
 さて、「中」を大切にすることでは、東洋の知恵としていろいろと伝わっている。
 私は、儒教などの中国の教えは、それほど詳しくないが、仏教の教えなら少しはわかってきた。仏教では、「空・仮・中」という三段階の立場がある。世の中に存在する一切のものは、心が作り出したもので、実体はないという「空」の立場、世の中のものすべてを認める、それらに対して菩薩の心で救うべきという「仮」の立場、そして両者を否定した「中」の立場である。
 ただし、仏教の「中」の立場というものは、単純に足して2で割るというようなものではない。一度、すべてのものが「空」であるということを、自分の心をきちんと見て悟る。このように「空」を実感した後に、すべての現実にあるものを認めたうえで、救いの手を差し伸べる菩薩の境地である「仮」の心を体験する。その上で、空と仮に偏ることの危なさを見ながら、両者を認めかつ否定する「中」の仏の境地になる。
 つまり、空と仮の両極端を体験し、それを両者認めたうえで、さらに否定して中をとる。これが本来の中の立場である。もっと言えば、仏の力では、「空」も「仮」も実現できる。その上で、「中」の立場をとるのである。
 これが理解できず、単に形だけで「中をとる」のは、本当の「中」を行ったということではない。うわべだけの解決では、皆の納得を得ることができない。自分に厳しく両極端まで実行する力、考え抜く力があってこそ、中をとることができるのである。

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