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2016年4月 1日 (金)

自分の意見を言うための条件整備(総合的議論ができない その2)

 昨日は、総合的な視野での議論ができない理由に関して、大学などの問題を描いた。本日はその続きとして、小学校から始まる教育全体の問題について、少し書いてみたい。
 まず、歴史上の問題として、小学校・中学校教師の多くは、1945の転換時に、手のひら返しをした人間が多くあったということを押さえておかないといけない。
 戦時中:「国のために死んで来い」
 戦後: 「平和が大切、マッカーサー万歳」
彼らの言い分は、
 「上からの指示通り、私たちに責任はない」
 「悪いのは軍部や政治家」
ということで、政治的なことへのかかわり方逃げるようになった。
 そして、もう一つの流れは、詰め込み教育である。教師が知っている回答を、生徒が言えばそれでよいとする。断片的なものに正しく答える。全体像などを持つ必要はない。これが、大学までの教育で大きな部分を占めている。
 この一つの現れは、正解を隠した問題集である。私は、正解を写すだけで宿題を終える子がいるので、正解を取り上げるという発想は、一つはあると思う。しかし、状況によっては正解を与えることで、全体の見通しができ、次に進む子もいることは確かである。自分の答えに不安なとき、正解と合わせることで安心する。
 このような効果も考えるべきである。そして、全貌を観たうえで、自分で判断する子を育てる、これが大切ではないかと思う。

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