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2016年4月 3日 (日)

自分のものにするために

 昨日書いた、学問的知識の習得状況について、もう少し考えてみた。
 理系、特に工学部の場合には、学問的知識を仕事の上で直接的に生かすことは少なくない。例えば、数式処理はいたるところに出てくる。モーターの制御を考えるとき、座標変換を行うことが多いが、これをしっかりした知識の裏付けがあれば、理解も深まり、いろいろな応用がきくしトラブル対策もできる。こうして、工学部などでは、大学の教育内容の習得度が、仕事の上で生きる世界になっている。逆に、低いレベルの到達度の学生には、就職後の地獄になることもある。
 しかし、文系においては、昨日も書いたが、知識の実務上での応用ということが、あまりできていないように思う。また採用側もあまり専門性を評価せずに採用しているように思う。
 ここで大事なことは、学生時代から方法論をきちんと学び、自分のものとしておく経験が必要だと思う。
 昨日も書いたが、ヴェーバーは、二つの文化を比較して、一方に発生したものが、他方に発生しない理由を考えている。このような思考法は、製品の売れ行き、制度の違いなど、いろいろな分野で使えると思う。このような使える知識を、きちんと身に着けてほしいものである。
 使える知識ということでは、法華経の考えもよいのではないかと思う。
  開(覚):そのようなものがあると教える
  示(観):その内容を示す
  悟(喜):自分の中にその力があることを示す
  入(楽):その力を通常のものとして使えるようにする(その中に入る)
この4段階である。自分のものとして、楽しめる段階まで至る。これが使えるということだろう。
 そのようなものがあると知らせる、知識付与だけでは教育として不十分だと思う。

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