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2016年5月18日 (水)

「純心」について

 先日から、山本七平の「常識」関連の本を読み直している。
 なかなか鋭い指摘があり、この議論をしっかり育てていれば、もっと面白いものができたと思うが、「百人切り論争」などで、左翼系の知識人たちの攻撃(口撃)で、つぶされたことが惜しまれる。
 さて、今回は、文春文庫:「常識」の落とし穴、のp201~p203にある、「子供は純心」という話について考えてみた。
 「子供は純心」という話は、子供の殺人事件に対して、学校長経験者の経験談として、

「子供が純心だというのは現在の興味に没入してそれだけが世界だからさ。大人はすぐ周囲のことを考える。そして将来のことを計算する。簡単にいえばそれを行った場合、周囲が自分をどのように扱い、それが将来どう影響するかを反射的に把握するコーチを持っている。」
「コーチって」
「狡知さ、狡猾な知恵だよ。しかし計算高い狡知に少々自らうんざりしているから、純心な子供を見るとほっとする。しかし、今回のような事件はその子供に狡知があれば、いわば周囲と将来を把握できる能力があれば、起こらなかっただろう。だが大人は自らの狡知にうんざりしているからその教育をしたがらずにきれいごとを言う。これは左右ともだ。これも、こわい話だな。」

という話が出ている。この子供の「純心」の原因を、自分だけの世界しか見ない。他人の評価や、将来の計算を行う、「狡知」を持たないことによる、としている。この意見は、確かに当たっていると思う。
 ただし、現在は、上で言うところの「狡知」を、「他人への思いやり」や「共感」などという、きれいごとにして教えている。そして、このような思いやりがないと「発達障害」のレッテルを貼る。こうして、このような「狡知」を使わないで行くような、「美しい心」を保つ教育ができている。
 しかし、考えてみれば、「限られた世界だけしか見ない」特性は、ある意味学校教育への適合度が高くなる。言い換えれば、「教科書がすべて」人間の成績はよくなる傾向がある。ただし、実際に世間で生きていくときには、教科書通りに試験では回答し、実生活では、適当に周囲に従う「狡知」を身に着けるほうが、生きていきやすい。
 学校教育を、相対化する知恵を「狡知」というラベルが適当かは、よく考えないといけないが、教科書の世界に閉じこもる「純心」の危険性は、きちんと考えないといけないと思う。そして、必要に応じてこの世界から出る工夫も必要だと思う。

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