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2016年5月 3日 (火)

学問的知識の危険性

 昨日書いた、経営などに文系の学問の力で、議論を見えるようにするメリットについて、少し補足しておく。
 このような議論を行うとき、学問が喧嘩の道具、特に知らない人間を馬鹿にするための道具、になってはいけない。ある用語を知らないからと言って、その人間を馬鹿にする。このようなことがあってはならないと思う。確かに、基礎的な概念を一々教えてもらわないといけない人間が、議論に加わることは、邪魔になるだけである。しかし、そのような人にも解るような解説の場があることも大切である。
 素人の口出しが混乱を招く、これは確かに起こることである。今の地震中の対策など緊急を要する場合には、素人が口出しして混乱させた、管政権のようなことをしてはならない。友好国の米国が支援してくれているのに、
  「オスプレイ反対」
と叫ぶようなものは排除されても当然である。
 しかし、後々に今回の判断が正しかったか、ゆっくり検証できるように、素人にもわかるような説明も大事である。本来これこそマスメディアの仕事であるが、東日本大震災時の当時の政権の判断について、きちんとした解説記事ができているかというと疑問である。それどころか、悪意に満ちた朝日新聞の思い込み記事でのミスリードすらある。

 さて話を戻して、文系の学問の力での議論だが、困った現象が起こるのは、用語の一人歩きが大きな原因だと思う。例えば、ヴェーバーの「心情倫理」と「責任倫理」という言葉だけを振り回し、ヴェーバーがなぜこれを使ったかを、理解しない人がいる。ヴェーバーが、どうして理念型を使うようになったか、きちんと理解しその方法論を皆に伝えることが、文系の学問の役割ではなかろうか?山本七平を、学問的な議論ができないと、無視し葬ろうとした人たちの流れが、今もあるのではと思う。

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