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2016年6月30日 (木)

あまりにも清潔にしすぎた世界は善いものだろうか?

 先日、東洋経済オンラインで気になる記事を見た。
http://toyokeizai.net/articles/-/124699
この記事が示す、貧困の再生産のすさまじい実態は、私たちの想像を超えている。このような実態と、向き合うことが、本当の行政であろう。しかし、どうも貧困問題というときには、もう少しましなレベルで議論しているような気がする。
 http://toyokeizai.net/articles/-/124865

 確かに、貧困の連鎖に陥る前の対策は重要である。しかし、すでに落ち切った人に対して、目を向けない面があるのではと思う。
http://toyokeizai.net/articles/-/123487

 この理由について、少し考えてみた。一つの仮説は、学校教育的な理想世界の行き過ぎである。学校はある種の教科書的理想社会が実現する。そしてその「清潔な社会」に皆を押し込もうとする。そこで排除されたものは考慮外ということになる。これが一つの可能性である。特に、昔大阪府知事時代の橋下氏が、

   「私学の一貫校育ちの人は多様性の理解に欠ける傾向がある」

と指摘した。これが一つの行き過ぎた形である。しかし現在の人材選別は、学校成績に依存するものが多く、このような優秀な人材が多くの政策を作っていることが実態である。このような人の多くは、「清潔な社会」を求めるようになる。つまり、少しでも汚いものを排除する動きである。

 このように考えると、「暴対法」なども一つの流れとして見えてくる。確かに、九州の暴力団の動きなど、一般大衆を巻き込む動きは許せるものではない。しかし、暴対法で、生活手段まで奪ったとき、彼らが今後どのように生きていくのか、そのような想像力をもって、施策ができているとはとても思えない。このような配慮のない施策はどのようにして生まれるのだろう。

 私の考えでは、やはり学校的な発想があり、想像の限界を作っているのではないかと思う。また、昨日も書いたが、医療的な発想では、

  「治療できない(心の)闇はそのままにする」

という対応がある。これを施策にまで使っているのではないかという疑念もある。従来、革新左翼には、理想論主導で、それ以外の面に目をつぶる傾向があった。しかし、保守右翼には現実に目を向け、このような闇を許容する幅があったと思う。これが少しおかしくなってきているのではないかと思う。

 確かにこのような闇に向かうには、大変な努力が必要である。覚せい剤の某被告に対し

   「なぜ保護観察にしない?」

と多くの人が言った。しかし、

   「保護司は足りない」

という現実を説明する人は少ない。

 ただし、救いはあると思う。

 http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/200475/062400059/?n_cid=nbpnbo_ml&rt=nocnt 

 この記事にある、受刑者の規律の正しさ、これは貴重な能力だと思う。これを生かす、管理能力、経営力があれば、社会に通用する人材になる。ただし、そのための経営者、実戦管理監督者の人材がそろうか、そこに一つの補強課題があると思う。

 私のアイデアでは、普通の経営者・管理者と、保護司やメンタル面のサポート者が、きちんとチームを組んで、犯罪更生者などの生活を再建していく、このような解決が一つあるのではと思う。

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