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2016年6月27日 (月)

「大人げない」ということについて

テレビ局などに対し、安倍首相近辺から、色々とクレームがつくこともあるらしい。

ある番組では、時間制約を最初に言っていたのに、わざと超過させ最後の質問から逃げるような演出をさせたということで、不快感を示したという話がネット上に出ていた。安保法制に関する、某公共放送のやらせ疑惑で話題になった番組でも、S長官に対し、最後の1分を切ったところで質問し、答えられない状況に追い込んだKキャスターもいた。

このようなテレビ局の対応に関しては、普通の人間なら不快に思うと思う。しかし、従来(20世紀まで)なら、

 「マスメディアは政権委は批判的が普通」

 「このような事に怒るのは大人げない」

と、抑えていた。

この大人げないという言葉には、深い意味があると気が付いたので、もう少し議論しておきたい。

 

まず、「大人げない」という余裕のある政府は、どのようにしてできたのだろう。これは、第2次大戦後の自民党の安定政権の時代にできたものだと思う。この安定政権を支えた一つは、冷戦構造によるアメリカの援助である。特に戦後の混乱期の吉田茂などの指導者は、

 「日本はソ連の側につく可能性がある」

と左翼的言動を、公にさせる戦略をとっていた。そして、それを理由の一つとして、アメリカの支援を引き出すとともに、軍事行動には巻き込まれない、という巧妙な立ち位置を維持していた。

もう一つ、別の面でいうと、そもそも「革新」というものは、現在の状況にない『理想的なもの』を掲げる立場である。そこには、本質的に「若さ」による行動がある。理想像ということは、特定の条件だけを見ることで始まり、彼らが思う現実の些末なことを無視していく。これはある種の、自分の周辺だけがすべての子供の世界である。さらに、このような視野の制限は、教科書的な世界で全てと考える、学校社会に良く適合する。こうして、左翼的な理想論を、学生時代までは言わせる。

 

一方、現実的な複雑さ、多様さに関する観点は、学校以外での付き合いや、社会に出てからの実務として、長い時間をかけて身に着けていた。ただし、この場合でも、会社人間という形で、相変わらずの視野狭窄に陥った場合もある。このような流れを通じて、現実的・保守的な思考法を教えていく。これが「大人の」考え方という図式である。

 

しかし、終戦から70年も経過すると、このような学校社会的な優等生が優位になってくる。特に、私学の進学校などに小学校や中学校から進むと、生活条件などが一様なものの付き合いになり、多様性に対する配慮が欠けるようになる。

こうした優等生ばかりが多くなると、どうしても教科書的な思考が幅を利かせるようになる。

また、ソ連の崩壊に伴い、冷戦構造も変化した。アメリカも日本に対する援助を行う必要もなくなっている。

このような条件から、社会的な状況も変化し、会社でゆっくり育てるということも難しくなっている。

 

そこで言われるのが、自立しろという話である。ここには、親としての余裕がなく、相手を大人としてみる立場である。

こう考えると、大人げないという行動が出てくるのは当然だと思う。

 

逆に、反政府という立場なら、何をしてもよいという甘えが許されなくなってきた。これが現状だと思う。

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