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2016年8月14日 (日)

教育に関する議論(踏み込み方)

 NETGEEKが、学校の読書感想文のマニュアル化について、面白い情報提起をしていた。
 小学校で配られた読書感想文マニュアルに賛否両論の声http://netgeek.biz/archives/80479
である。このページでは、感想文指導のマニュアル化について、賛否両論で適当にまとめている。
 しかし、私はこの問題は、もっと踏み込んで議論すべきものがあると思う。まずこのマニュアル自体に関しては、このページにもあるように、もう少し別の形で、テンプレート的なものと言えないレベルの教材が良いのではという議論がある。
 http://blog.tinect.jp/?p=28152
しかし、もう少し踏み込めば、そもそも宿題や自由課題の位置づけという問題がある。
 私の意見では、学校教育において、きちんと基礎的なもの、手法などを教えておいて、その応用として宿題を自分でさせる、自由課題に取り込ませるというのが、あるべき姿だと思う。もう少し言えば、教室内で皆にマニュアルや、テンプレート的なもので、感想文を一度書かせておく。その上で、自分が選んだ本で書いてみなさいという、夏休みの課題を出すならわかる。それもせずに、いきなり好きなように書けという。そして持ってきたものに対して、悪いと難癖をつける。このような指導でよいのだろうか?
 私の中学生時代の経験だが、ある生徒が読者感想文として、「書評の文体」で提出したことがあった。中学生の分際で、上から目線で書いている、しかも着眼は不十分と、教師にはかなり酷評されていた。しかし、今の智慧で考えると、その時私たち生徒は、読書感想文はどのようなものか、書き方までは習っていなかった。先輩の模範感想文などを数点を、参考で読むぐらいが、指導であった。そのような状況なら、新聞などの書評の文体をまねる子供がいても、不思議はないと思う。
 このように考えると、作文の指導に何か、かけているものがあると思う。ある国語以外の学校教師の皮肉がある。

作文指導に関しては、教科書作成会社の指導書(赤本)はない。従って、作文の指導は授業では行えない。

 これは、赤本便りの教師の一面をついている。しかし、私は国語教育の基本的な議論に、もう少し大きな問題点があると思う。それは、言語技術教育と感性の国語教育の争いである。つまり、マニュアル通りの文章をきちんと書けるようにする、言語技術の教育と、人の心に寄り添い理解し表現する、感性の国語教育の違いである。ただし、これを二者択一にしてしまったのは、日本の国語教育の大きな失敗だと思う。実際は両方が必要である。
 具体的には、まず定型文がきちんとかけるようにする。論理的な文章の理解が、きちんとできるようにする。この言語技術を基礎スキルとして、その上で「人の心に寄り添う」感性を育てるべきではないかと思う。確かに、子供のころから、型にはめると感性が育たないという意見もある。しかし、これは使い分けで対応できるのではないかと思う。
 このように考えると、作文指導では、まず定型的に書かせる。その上で、自由な感性で書かせてみる。このステップが必要ではないかと思う。

 さて、このような議論が、どのように行われるのが望ましいのだろうか。実は、戦後には「西尾・時枝論争」という有名な議論がある。ただこれが、文学関係の学者間の議論となっている。しかし、教育という問題で考えるなら もっと広い観点で、公開の場で議論すべきではないかと思う。
 教育に関しては、確かに国会議員などの色々な発現で、「素人意見の混乱」という側面を感じることもある。しかし多様な意見を交えながら、あるべき姿を描くことが、高学歴者があふれる現在には必要なことではないかと思う。

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