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2016年11月21日 (月)

抽象的なモノの伝達について

 先日から、知識の伝達について色々と考えていたが、昨日ある寺での法要で、「慈悲」についての法話を聞いて、少し気が付いたことがるので、忘れないうちに書いておく。
 まず問題とすべきは、「慈悲」のような抽象的な概念を、どのように人に伝えるかという問題である。ここで大事なことは、『慈悲』という、言葉だけを伝えて、それだけで分かった気になる。もっと言えば、辞書にある説明を暗記して、それを書けば点がもらえる。現在の我々は、このような世界に住んでいるのではないだろうか?
 さて、仏教の状況を考えてみよう。仏教は古い歴史があり、日本伝来でも6世紀である。その時代のわが国の状況を見てみよう。文字は漢字を借りてきて、万葉仮名として記述するぐらいで、漢文を読むことが教養という時代である。しかも、紙も貴重品である。このような時代には、本というものは紙自体が貴重なうえ、筆写や木版を作るという作業もより高度な人財活用が必要であり、現在の本の入手とは違う、価値があったことを忘れてはいけない。
 従って、仏教としての伝達方針は、僧から信者への説法が中心となる。この時には、種々の実例を引き、例え話をしながら、「慈悲」という概念を伝えただろう。そして、「慈悲」について知ったという人は、説法に感動し、何らかの実感を得た人であった。
 このように抽象的な概念を、字面だけで分かった感じになる。この現象は、グーテンベルグの印刷革命と、その後の教育普及の悪影響ではないかと思う。現在は教育の大衆化で、実感なしの、言葉だけが空虚に走っている。
 さらに現在のIT社会では、ネット上から情報が押し込まれてくる。このような状況で
  「中身を知らずに『TPP反対』『安保法制反対』」
という事態が大きくなっているように思う。
 もう少し言えば、「慈悲」のような概念には、感動が必要である。これを、実体験をしていない人間に、教科書通りの感動を押し付ける。このような状況が現在の根底にあるのではないかと思う。

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