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2016年11月27日 (日)

集中の使い方について

 勉強の方法という、このブログの原点に返って、記憶することについて考えてみた。記憶するためには集中が大切ということは、多くの人が指摘している。
 しかし、単に文字面だけの、集中でよいのだろうか?例えば、「正義」「慈悲」という言葉に対し、漢字の読みを覚えるというだけになら、このような文字だけを書きながら、「せいぎ」「じひ」と口に出して言えばよいだろう。しかし、本当に記号の世界だけでよいのだろうか?
 人によっては「正義」という言葉で、色々なことを連想するだろう。「慈悲」でも同じである。世界の中で色々行われいることに関するニュース映像や、報道記事の内容を思い出すこともあるだろう。そして今までの、自分の経験を思い出す人もいるだろう。
 また逆説的な連想もあるだろう。「アメリカの正義」という言葉で、残虐行為を連想する人もいるかもしれない。「慈悲」という言葉に反応するのは、子供を虐待する親かもしれない。
 このような、多様な関連事項が重なったところに、「正義」や「慈悲」のような抽象的な概念はあると思う。これを集中するということで、「正義」という文字だけしか見ないようにする。これで本当に良いのだろうか?
 集中ということは、その概念を中心に、色々な関連したことを思い浮かべ、しかも元の概念に戻ってくる。こうした形で、その概念の意味をきちんと身に着けていく。これが本当の集中ではないかと思う。
 天台の止観業にある、「一つに止める」と「観る」の両面が必要ではないかと思う。リラックスしながらも焦点から離れず、それを豊かにする。このような能力が、抽象的な概念を使いこなすために必要ではないかと思う。そして、自分の連想が豊かな人は、他人は別の連想を持つことも理解できるのではないかと思う。こうして多様性への理解も深まってくると思う。

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