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2016年11月23日 (水)

仏教の安全装置が無くなった

 昨日書いた、仏教の大衆化は日本で強烈な発展を遂げた。この件に関して、山本七平はどこかで、「これが本当の仏教?」と疑問を呈している。ただし、この言葉は彼特有のレトリックで使われたもので、日本のマルクス主義も同じ論法で切っている。
 さて、仏教の経典に変えると、阿弥陀如来の浄土を観る、観無量寿経においても、第二観の水想観ですでに、

「空・無常・無我の教えも身にしみて、いたずらに自我にこだわり、煩悩に迷い苦しむことはなくなる。」

と、『空』等の、仏教の大事な教えを先に実感するようにしている。
 また、天台の魔訶止観では、

「心の中に、仏の教えがあって、仏の姿を見る場合には、魔境に陥らないが、先に仏の姿だけを見るのは魔境に陥る。」

と戒めている。
 しかし現在の社会では、スマホの画面には、ご親切にも色々な画像が押し込まれてくる。

「仏の教えを知らずに、仏の姿を見る。」

世界になっている。
 まだ、本などの紙の世界での情報伝達なら、自主的に読まない人間にしか、情報は伝わらなかった。しかし現在の情報大衆化は、ネットとスマホという道具で、求めようとしない人にまで、情報が伝わっている。
 この危険性をもう少し考えるべきではないかと思う。

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