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2016年11月22日 (火)

仏教の大衆化から見えてくるもの

 昨日書いた、抽象的なモノの伝達に関連して、日本の仏教で一つの典型を見つけた。
 それは、阿弥陀如来の浄土に関する信仰である。そもそも法然による阿弥陀如来の信仰は、浄土三部経と言われる、無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経を重視している。その中では、阿弥陀如来の救いの力や、浄土の美しさを賛美している。
 そこで大切なことは、観無量寿経の存在である。このお経は、十六観と言う行があり、夕陽の残像から何時も日の姿が見えるようにする、次に水の様子を想像する、そして徐々に極楽浄土の細部を想像できるようにしていく行である。
 これは、法然のいた12世紀でも、まだまだ印刷や紙は貴重なものであり、自分の力で仏の姿や世界を想像するしかなかった、状況に適した行であった。一方、金と権力のある、藤原氏のような貴族は、その観想が楽にできるように、具体的な建物として、平等院鳳凰堂を構築した。
 このように、自力他力で、阿弥陀如来の救いや極楽浄土を「見える形」で感じ取る。このような修行が必要であった。
 しかし、法然の孫弟子の教えを受けた一遍は、
   「南無阿弥陀仏」
とだけ唱える、念仏の教えを流行らせた。これに対抗し、蓮如が浄土真宗の大衆化を図り、これも
   「南無阿弥陀仏」
を唱えることに重点をおいた、大衆化路線を走ることになる。
 このように、広がりのある概念である、「阿弥陀如来の救い」を、想像力を駆使し、広く深く身に着けるのではなく、単なる
  「南無阿弥陀仏」
という六文字に押し込める。このような知識の大衆化は、深く考えずに信じる体質にもつながっていく。
 日本の文化には、このような歴史的な盲信の風土があるのではないかと思う。

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