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2016年12月23日 (金)

聴覚を抜きにしたコミュニケーションについて

 今井参議院議員のTwitterに紹介されていた、「手話を言語というなら:ひつじ書房」を読んだ。この本自体は、一つの問題提起として、大きな意味があると思うが、私個人としては色々な不満がある。狭い了見かもしれないが、少し議論に付き合ってほしい。
 少しこの本の記述からはずれるが、基本的な立場として、健常者と聴覚障がい者という表現に関しては、慎重な態度が必要だと思う。確かに、現在の文明で多数を占めるのは、聴覚も利用できる人間である。従って、コミュニケーションの基本として、音声言語を考える文明となっている。しかし、コミュニケーションということでは、音声情報だけでなく、顔の表情や身振り手振りなどの情報でのコミュニケーションもあり、文書情報や画像情報でのコミュニケーションもある。聴覚に障害を持っている人には、このような表情などを敏感に読み取る力に長けている人が少なくない。彼らにとっては、音声言語だけに頼っている人間の方が、感情伝達などでは、よっぽど鈍感に見える可能性もある。これは忘れてはいけないと思う。

 さて、今回議論したい問題は、コミュニケーションという観点での掘り下げであり、以下の2側面の区別である。

  1. 感情的な情報を伝達するコミュニケーション
  2. 論理的な狭い意味での情報伝達を行うコミュニケーション

次に指摘しておくことは、わが国の言語発達の特異性である。母国語で先端学問まで学べるということは、世界の多くの国ではありえないことである。これは、明治の文明開化時に、先人たちが苦労して、物理学などの概念を翻訳したお陰である。しかし、この成果の副作用として、日本という国は、世界文明の中では特異なモノリンガル文明となっている。
 多くの国は、先端学問を学ぶ場合には早くから、英語、フランス語、ドイツ語などの外国語で
の学習を余儀なくされており、必然的にマルチリンガルになっている。
 この点を考慮して、
   「学問世界で手話をどこまで充実させるか?」
という議論が必要であると思う。私の意見は、学問的な話は、日本語の書き言葉文明に適合していくような教育が適当ではないかと思う。
 一方、感情的な情報伝達には、手話は必要なものと考える。ただし、前にも指摘したように、単なる手話だけの能力ではなく、表情の読み取りなどの高度なコミュニケーション能力が必要になる。このような訓練は、聴覚の不自由な人にも必要だし、手話通訳者にも必要だと思う。実際、聴覚が不自由な子供を持った親は、子供の表情などを読みながら、感情的なモノを受け止めち得るだろう。このレベルまでできて、初めて手話通訳と言えるのではないかと思う。
 このような、感性の面まで考慮した、「手話という言語」を育てる研究が、必要ではないかと考える。なお、論理的な書き文字による文章情報による学習は、例えば海外移民の子供の教育など、日本語を母語としない子供の教育や、明治の津田梅子のように、子供の時から、英語などの環境で、日本語以外で学問体系を身に着けた人間を参考にすることも有効ではないかと思う。 

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