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2016年12月24日 (土)

手話を言語としてみたときに考えるべきモノ

 昨日に続いて、「手話を言語と言うのなら:ひつじ書房」を読んで考えた。一つの極端な事例として、聴覚に障害のある人に対する、カウンセリングとはどのようなものになるだろうという議論である。

 カウンセラーの心得のある人が、最初に叩き込まれることは、クライアントの言うことを受け入れる「積極的傾聴法」である。ここで注意すべきことは、単なる言葉を聞くだけではなく、その言葉を口にしている人の心に寄り添いながら聞くということである。つまり、身振りや表情の細部にまで注意を払いながら聞くということも含まれる。
 さて、ここで、聴覚が不自由な人、発声能力が不自由な人のカウンセリングは、どのようになるだろう。
 まず、単純な発想で、現在カウンセラーとして働いている人に、手話を教えてカウンセリングに従事させるという段階がある。私は、この意見に関して、90%は反対である。反対理由は、
   「手話がネイティブのレベルに達成していない段階では、
    クライアントと満足な意思疎通はできない。」
と考えるからである。カウンセリングの傾聴では、クライアントの心の中にあるモノを吐き出してもらいながら、クライアント自体が気が付いていくことを目指している。しかし感情の激流を表現するには、ネイティブ言語の最高のスピードでも追いつかないことが多い。このため、最低限でも手話ネイティブのスピードの対話能力がないと、カウンセリングは難しいのではないかというのが、一つの論点である。
 もう一つの論点は、聴覚が不自由な場合には、コミュニケーションにおいて、表情などほかの部分の感性が高くなっている、ということである。このようなレベルの感性が、聴覚に頼る傾聴訓練を受けた人間に達成できるかという問題である。

 一方、10%の可能性と言ったのは、上記の感性の話と関連するが、高度のスキルを持つカウンセラーには、クライアントのことを全身全霊で受け止める力がある人がいるということである。このような人の場合には、言葉の壁すら乗り越える可能性がある。従って、手話や筆談で補いながらのカウンセリングも可能になる。この可能性は捨てきれないが、きちんとした選抜の仕組みは必要だと考える。

 さて、聴覚に障害のある方自体が、カウンセラーとなる可能性に関しても、考慮すべき問題がる、これは、
   「手話を言語として言うなら」
という問題そのものであり、手話による傾聴スキルの評価と、ペーパーテストによる理論理解評価の選抜方法が必要になると思う。これに伴い、育成体系の検討も必要になる。

 手話を言語と認めるなら、このような施策も必要ではないかと思う。


 

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